1 いつものこと
「ロズリー。そのブローチ、私のものよ」
朝食の後だった。
父はまだ食後の茶を飲んでいて、長兄のウィリアムは窓際で今日届いた招待状を眺めていた。オードリーは茶器の横に砂糖壺を置き直している。だからマギーも、最初はただ確認しただけだった。
ロズリーの胸元に、小さな真珠のブローチが留められていた。
派手な品ではない。けれど、それは亡くなった母がよく使っていたものだった。
マギーがまだ幼い頃、母の膝に抱かれて、その真珠に触れた覚えがある。母は笑って、これはいつか貴女にあげるわ、と言ったものだ。
実際、その通りになった。
母が亡くなった後、ブローチはマギーのものになった。昨日も自分の小箱にしまったはずだった。
「ご、ごめんなさい、マギー様」
ロズリーはすぐに胸元へ手をやった。ただし、ブローチを外そうとはしなかった。
「私、そんなつもりではなくて……奥様が、今日のお茶会にはこれが似合うとおっしゃってくださったので」
――まただ。
マギーは膝の上で指を組んだ。
ロズリーはいつも、何かを取る。けれど取ったとは言わない。
知らなかった、そんなつもりではなかった、勧められただけだった、と言う。
そして最後には、マギーが責めたことだけが残る。
「それは母の形見なの。だから返して」
「マギー」
ウィリアムの声が低くなった。
招待状を卓に戻し、彼はロズリーの隣に立った。早かった。
あまりに早くて、マギーは少しだけ笑いそうになった。もう、最初からそこへ行くつもりだったのではないかと思うくらいだった。
「朝から何を言っている。ロズリーが困っているだろう」
「困らせたいわけではないわ。ただ、それは私のものだから」
「だったら、もっと穏やかに言えばいい」
穏やかに。
マギーは一度だけ目を伏せた。
穏やかに言っても、聞かれない。はっきり言えば、きついと言われる。黙っていれば、譲ったことにされる。
するとロズリーが、慌てたように一歩前へ出た。
「あの、ウィリアム様。マギー様を叱らないでください。私が悪いんです。私が、何も知らずに……」
「ロズリー、君が庇う必要はない」
ウィリアムの声が、そこでやわらかくなった。
「君はこの家に来たばかりで、まだわからないことも多い。マギーはそれを知っているはずだ。それなのに、そんな言い方をするのはよくない」
ロズリーはブローチに添えた指を、そこでようやく少しだけ下げた。けれど外さない。
外さないまま、目だけを伏せる。
「違うんです。マギー様は、きっとお母様のことを思い出されて……私が悪いんです。奥様がせっかく選んでくださったから、嬉しくて」
だから、返す気はないのだ。
マギーはそれを見ていた。
「マギー」
今度は父だった。
父は茶碗を置いていた。音は小さかったが、居間にいる者の視線は全部そこへ向いた。
「ロズリーはこの家に慣れようとしているところだ。少しくらい、譲ってやりなさい」
「お父様。でもこれは、母の」
「だからこそだ」
父はそう言った。
マギーは返事をしなかった。言葉の先が、もう何となくわかったからだ。
「お前には亡き母の思い出がある。この家もある。私も、兄たちもいる。だがロズリーには、頼るものが少ないのだ」
――ほら、やはり。
マギーは組んだ指に少し力を入れた。
――母の思い出があるなら、少し分けろ。父も兄もいるのだから、ロズリーを可哀想だと思え。
けれど、分けたものは戻ってこない。
ロズリーは、借りたものを返さない。本を借り、席を借り、予定を借り、今度は母のブローチを借りている。そして皆は、それを優しさだと言う。
「マギー」
オードリーが静かに口を開いた。
父の後妻である彼女は、いつも大きな声を出さない。叱る時も、慰める時も、声はだいたい同じ高さだった。だから父は、オードリーを穏やかな人だと言う。
「私が悪かったのよ。今日のお茶会はロズリーにとって初めての場だから、少しでも落ち着けるようにと思ったの」
「それで、私の小箱を開けたのですか」
「貴女のものを奪うつもりはなかったわ」
オードリーはそう言って、ロズリーを見た。
その一瞬だけ、目元がやわらかくなる。マギーはそれを何度も見ている。最初は、身寄りのない娘への憐れみだと思った。けれど今は、そのたびに小さな針を飲み込んだような気になる。
「ただ、この家のあたたかさを、あの子にも分けてあげたかったの」
――あたたかさ。
マギーは息を吸って、吐いた。
ここで笑えば、またウィリアムが怒る。父が眉を寄せる。ロズリーが震えた声を出す。そしてオードリーは、悲しそうに名前を呼ぶだろう。
そこまで、もう何度も見た。
「……今日だけなら」
マギーは立ち上がった。
「《《今日だけ》》、お貸しします」
ロズリーがぱっと顔を上げかけ、すぐにうつむいた。
「ありがとうございます、マギー様。大切にします。本当に」
「そうだ。それでいい」
ウィリアムは満足そうだった。
「マギー、お前も少しはわかってきたじゃないか」
――わかってきた―― 何を?
けれどマギーは、何も言わなかった。言えばまた、最初に戻るだけだった。
一礼して、居間を出る。
扉が閉まる前に、ウィリアムの声が聞こえた。
「気にしなくていい、ロズリー。あれは昔から少し頑固なところがあるんだ」
「でも、私のせいでマギー様が……」
「君は優しすぎる」
扉が閉まった。
*
廊下に出ても、焼き菓子と紅茶の匂いが追ってきた。オードリーの好む花の香りも混じっている。
朝の居間は、今日もきちんとしていた。テーブルクロスにも皺はなく、窓辺の花も新しい。
だから余計に、マギーの居場所だけがずれているように思えた。
自室へ向かう途中、壁に飾られた母の肖像の前で足が止まった。
母は笑っている。
けれど、その胸元にはもう、あのブローチはない。今はロズリーの胸にある。
マギーは肖像を見上げたまま、しばらく黙っていた。
このままここにいたら、きっと父を嫌いになる。ウィリアムも、オードリーも、ロズリーも。たぶん、この家の朝食の匂いまで嫌いになる。
それは嫌だった。
まだ、嫌だった。
だからマギーは自室に戻り、小さな鞄を出した。
ドレスは要らない。宝石も要らない。持っていけば、どうせ誰かが何か言う。
手紙を書く紙と、少しの金。普段着を二着。母からもらった刺繍のハンカチは、迷った末に底へ入れた。
それから机に向かい、短い手紙を書いた。
――サミュエル兄様。
――お話ししたいことがあります。
――王都へ向かいます。
書き終えてから、しばらく紙を見ていた。
信じてもらえるかどうかは、わからない。サミュエルは王都の大学にいて、この家で起きていることをほとんど知らない。だからこそ、話せるかもしれない。
マギーは手紙を畳んだ。そしてもう一度、鞄の留め具を確かめる。
大切なものは少なかった。
……少なかったことに、今さら気づいた。




