第8話 エピローグ
あの卒業パーティから数か月。季節は冬から春へと移ろっていた。
王都での騒動は既に落ち着きを見せている。第一王子は王位継承権を剥奪され、辺境の別邸にて謹慎中と聞く。国王陛下はご健在で公務を続けておられるが、王太子の座はしばらく空位のままだそうだ。
わたくしはといえば婚約も爵位争いもすべて辞し領地であるエーレンベルクへと戻っていた。静かな田舎暮らしは思いのほか心地よい。
ある晴れた午後庭園でお茶を飲んでいるとお母様がふと隣に腰を下ろした。
「リーゼ、少し聞いてもいいかしら」
「はい、お母様」
「あの日、あなたが使った記録の魔法。幼いあなたに教えたのは私だったけれど……まさか本当に使う日が来るなんて、思ってもみなかったの」
「お母様……」
「ずっと話そうか迷っていたのだけれど、あれほどの魔法、本来なら普通の家に伝わるようなものではないのよ」
わたくしは思わず居住まいを正した。幼い頃に授かって以来、その出所を深く考えたことはなかった。ただの家伝の魔法だと思い込んでいたのだから。
「あの魔法は、どこから受け継がれたものなのですか」
お母様は少し遠い目をして庭の薔薇を見つめた。
「わたくしの実家、リンデグレーン家のことは話したことがなかったわね」
「侯爵家の……そうでしたわね」
「うちは代々、王家の記録官を務める家系だったの。表向きは目立たない役目だけれど、王家の言葉や約束事を公正に残す。そのための魔法を、女系で受け継いできた家柄だったのよ」
「記録官……」
「わたくしも若い頃は、王妃様付きの記録役としてお城に上がっていたの。あの魔道具は、その頃に授かったものだった」
お母様は懐かしそうに微笑んだ。
「本来なら、王家の許可なく私的に使うことは許されないものよ。でもね」
少し悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「旦那様に見初められて嫁ぐことになった時、当時の王妃様がそっと持たせてくださったの。『何かあった時のお守りに』と」
「まさか、そんな……」
「王妃様はね、王家という場所がどれほど人を狂わせるか、よくご存知だったのだと思うわ。だからこそ、外から嫁いでくる娘に、そっと力を残してくださったのでしょう」
わたくしは言葉を失っていた。あの日殿下を追い詰めた証拠。その根源には代々受け継がれてきた家の使命と、かつての王妃の密かな思いやりがあったのだ。
「あなたに教えた時は、まさか本当に使う日が来るなんて思ってもみなかったけれど」
お母様はわたくしの手をそっと握った。
「結果として、あなたを守ることができたのなら、それだけで十分よ」
「……お母様」
胸の奥が温かくなる。長い間誰にも言えなかった秘密の理由が、ようやく腑に落ちた瞬間だった。
―――
「お嬢様、お茶のお代わりはいかがですか」
声をかけてきたのはマリーだった。あの学園でも屋敷でも変わらず側にいてくれた侍女は、王都の混乱の中でも離れることなく、この領地までついてきてくれていた。
「ありがとう、マリー」
カップを受け取りながらふと尋ねてみる。
「マリー、あなたはどうして、あんなに噂の絶えなかったわたくしの側に、ずっといてくれたのかしら」
マリーは少し驚いた顔をした後柔らかく微笑んだ。
「お嬢様が本当はどんな方か、ずっと近くで見ておりましたから。噂なんて、信じるはずがありません」
その言葉に、わたくしは思わず目頭が熱くなるのを感じた。契約に縛られていたあの日々、誰にも真実を話せなかった中でマリーの変わらぬ態度だけが確かな支えだったのだと、今更ながら胸に染みる。
「これからも、よろしくお願いしますわ」
「もちろんです、お嬢様」
マリーは嬉しそうに一礼してその場を後にした。
―――
その翌週フィーネから手紙が届いた。
『突然のお手紙失礼します。あの時は、本当にすみませんでした。わたしも、ちゃんと自分の目で見ていればよかったんです』
率直な謝罪の言葉が綴られていた。わたくしは少し悩んだ末に返事を書くことにした。
『あなたも、騙されていただけですもの。どうかご自愛くださいませ』
それから何度か手紙のやり取りが続き秋にはフィーネが実際に領地を訪ねてくれることになった。
「本当に、綺麗なところですねぇ」
庭園を眺めながらフィーネが呟く。以前のような刺々しさはもうそこにはなかった。
「殿下のこと、恨んでいらっしゃいますか」
フィーネがおずおずと尋ねる。
「恨んでいない、と言えば嘘になりますわ。でも今は、それよりも大切なものがございますの」
わたくしは庭に咲く花々へ視線を移した。
「静かな毎日。信じられる人たちとの時間。それだけで、十分ですわ」
フィーネは少し驚いたような顔をした後柔らかく微笑んだ。
「わたしも、こちらで少し、ゆっくりさせてもらってもいいですか」
「ええ、もちろん」
―――
夕暮れ時庭園のベンチに一人腰掛けながらわたくしは静かに空を見上げていた。
もう誰かの命令に怯える必要はない。誰かを演じる必要もない。
幼い日お母様から授かったあの小さな魔法は、長い年月をかけてわたくしを守り抜いてくれた。そしてその源を辿れば見知らぬ王妃の優しさにまで行き着く。人の想いは、こうして静かに受け継がれていくものなのかもしれない。
風が薔薇の香りを運んでくる。あの日の庭園と同じ、けれど今はもう何の痛みも伴わない香りだった。
もう誰かの悪役を演じる必要は――ございませんわ。




