フンボルト辺境伯領
「この手紙をソーキサス皇帝に渡してくれ」
「かしこまりました、陛下」
「全ては両国の利とウィルを護る為に動いてくれ。頼むぞ、シロー、セシリア」
「はっ!」
「はい、お従兄様」
「うひょー!!」
一室に幼い奇声が響き渡り、大人たちの視線が一箇所に集まる。
声の主は当然のようにウィルであった。
転位魔法の座標固定のため、特別に用意された部屋ではカルツが使用人たちを転位先に送り始めており、ウィルは転位先からカルツについて帰って来たのだ。
「かるつさん、これはとってもすばらしいです!」
「お気に召して何よりです、ウィル君」
当たり前だが、行って帰ってくる必要性はまるでない。転位魔法に興奮したウィルがカルツに頼んで舞い戻ってきたのは想像に難くない。
「今日も楽しそうだな、ウィルは……」
「申し訳ございません、陛下」
「よいよい」
アルベルト国王が頭を下げるシローを手で制すると、ウィルが興奮した様子で駆け寄ってきた。
「よい!」
「ウィルが言うことじゃないんだよ?」
どうにも手をつけられない我が子に嘆息するシローを見て、アルベルトは思わず笑ってしまった。
「ウィル、カルツ殿の転位魔法はどうだった?」
「こっから、こう!」
ウィルが鼻息荒く手を横から横へスライドさせる。どうやら移動を表現したいらしい。
子供らしい表現に気を良くしたアルベルトはウィルの頭を優しく撫でた。
「ウィルにも使えそうか?」
ウィルは魔法を見て、なんでも真似してしまう。アルベルトがそう尋ねるのも無理はない。
アルベルトの質問にウィルはふるふると首を横に振った。
「これはつかえないです」
「そうかそうか」
ウィルはできない事はできないと、はっきり言うタイプのお子様であった。
アルベルトも転位魔法が精霊魔法に属すると知っているので真似するにも容易でないことを理解している。ウィルの返事を聞いても相好を崩したままであった。
「うぃるにはむこーがわからないからー」
転位魔法の行使に際して把握しておかなければならない事が二つある。それが移動先の座標と状況である。
座標はその土地を訪れることで一時的に把握できるのだが、恒久的に記憶することは不可能だ。故に、カルツは転位したい場所に目印となる魔法を展開している。しかし、それでも転位先の状況は刻一刻と変化している。離れた場所の状況確認など人の身で出来るはずもない。もし障害物があれば膨大な魔力を含んだまま衝突する恐れがあり、そうなれば大惨事になるのは火を見るよりも明らかだ。結局、転位魔法は離れた場所でも状況を把握できる精霊の力を頼ることになるのである。
「こんごにきたいします!」
ただ、ウィルは修得を諦めてはいないようだ。
それを理解したアルベルトがウィルの頭を優しくポンポンと叩いた。
「それでは、陛下……」
「うむ」
最後の転位となり、シローとセシリアがウィルを迎えに来る。ウィルは二人に導かれるまま、後方で控えるカルツに歩み寄った。
「行ってまいります、お従兄様」
「いってきまーす!」
「セシリア、ウィル、気を付けてな」
アルベルトが見送る前で優雅に一礼したカルツが魔力を展開した。魔力が意味を成し、それに合わせて空属性の精霊スートが座標を固定する。
次の瞬間、ウィルたちの視界は突如変化した。
「ようこそ。フンボルト辺境伯領、ルクレスト迎賓館へ」
シローたちが転移すると出迎えてくれたのはフンボルト辺境伯その人であった。
初老とは思えぬほど筋肉質で礼装よりか鎧兜の方が似合いそうである。実際、その通りの人物で先の戦で功績を挙げ、二つ名【フィルファリアの鉄壁】を授かっている。武勇だけでなく軍略にも長け、ソーキサス帝国の猛攻に対して一度も退かなかった名将だ。
従者を背後に並べ、恭しく一礼したフンボルト辺境伯が顔を上げるとセシリアが相好を崩した。
「ご無沙汰しております、フンボルト辺境伯様」
「セシリア様、また一段と美しくなられましたな」
セシリアとフンボルト辺境伯は面識があった。
十余年前、ソーキサス帝国との戦いの際、フィルファリア王国軍を率いたのはセシリアの父オルフェスであり、フンボルト辺境伯軍と肩を並べて戦い抜いたのである。以来、フンボルト辺境伯は王都に訪れると決まってオルフェスの屋敷を訪れ、セシリアもよく可愛がってもらっていた。
「それに、婿殿も変わらず元気そうだ」
「辺境伯様もお元気そうで」
「丈夫なのが取り柄だからなぁ」
フンボルト辺境伯から手を差し出され、シローが固く握り返す。シローとセシリアの結婚もシローの叙爵もフンボルト辺境伯は進んで祝福してくれた人物だ。シローからしても信頼できるフィルファリア貴族の一人であった。
「すぐに打ち合わせか?」
「はい。詰めておかなければならない事もございますので」
フンボルト辺境伯の質問にシローは申し訳なさそうに答えた。
出立は明日だが、シローやセシリアにはまだ事前の打ち合わせが残っている。日中にフンボルト辺境伯とゆっくり談笑している暇はなかった。
貴族としての旅路の面倒さを理解しているフンボルト辺境伯がそんなシローの顔を見て苦笑する。
「分かった。夜にでもゆっくり話をしよう。それまで、子供たちの面倒はこちらで見させてもらおうか」
「よろしいのですか?」
迷惑がかかるのでは、とセシリアが心配するがフンボルト辺境伯は笑みを浮かべてウィルの頭を撫でた。
「構わんさ。なぁ、ウィルベル?」
「うっ?」
フンボルト辺境伯が不思議そうに首を傾げるウィルに視線を合わせる。
「お前たちの父君と母君が仕事の話をしている間に私がルクレスト要塞を案内してやろうと思うのだが、どうだ? 興味はないか?」
ウィルも男の子だ。要塞という言葉の響きに興味を持つと思ったのだろう。案の定、ウィルは反応した。
「きょーみはあります」
「そうかそうか」
「でもー……」
ウィルが少し困った顔をして、今度はフンボルト辺境伯が不思議そうな顔をする。
「どうかしたのか?」
フンボルト辺境伯に尋ねられ、ウィルは視線を横に向けた。ウィルは知っているのだ。フンボルト辺境伯の提案が誰の心を一番くすぐるのかを。
フンボルト辺境伯がウィルに釣られて視線を追うと、そこには目をキラキラさせた姉のニーナの姿があった。
「フンボルト辺境伯様、私も要塞が見たいです!」
「ねーさまにはまけます」
姉の勢いを代弁するウィルにフンボルト辺境伯は豪快に笑ってしまった。
シローたちと別れた子供たちにはカルツが付き添った。カルツは今回の訪問メンバーには含まれていない。シローたちの訪問は貴族としてのものであり、その安全は隣国によって保証されるものである。従って、家臣以外の護衛は礼を欠く行為になるのだ。
「じーやもだめ、じょんおじさんもだめ、かるつさんもだめ」
不満に口を尖らせるウィルであったが、事情を知るカルツとフンボルト辺境伯は笑みを浮かべてウィルを宥めていた。
「私はシローの友人であると同時にテンランカーでもありますから……」
「ははっ、大人の事情だなぁ」
「むー……」
ウィルとしては道中にカルツがいた方が楽しめるのだが、今回ばかりは諦めるしかないようだ。大人の事情は子供に優しくないのである。
「ほら、着いたぞ」
そうこうしている内にウィルたちが辿り着いたのは訓練場であった。
「おおー……」
「すごい迫力ね」
兵士たちの気迫に感嘆するウィル。それを安心させるようにセレナがウィルの背を支えた。
模擬戦を行う兵士たちが体ごとぶつける様に盾と盾を叩きつける。その音を聞く度にウィルの体がぴょん、と強ばった。
「あんなに盾同士でぶつかり合うんですね……」
ウィルだけではなく、セレナもその迫力に圧されているようだ。唯一、興奮したニーナが目を輝かせてセレナを振り向いた。
「そうよ、姉様! 盾は前に出て捌く為にあるんだから!」
妹の興奮ぶりにセレナが苦笑いと疑問符を同時に浮かべる。どうやら近接戦闘のイロハはニーナの方が理解しているらしい。その事にフンボルト辺境伯も感心を顕にした。
「よく知っているな」
「お城の訓練場で見て、その時に教えて貰いました!」
ニーナはフィルファリア王国第二王女フレデリカと大変仲が良く、時折剣の稽古を共にしている。その時に教えて貰ったのだ。
得意げに目を輝かせるニーナの頭をフンボルト辺境伯が優しく撫でた。
「その通り。盾の基本は退いて守るのではなく、前へ出て相手の動きを制する事にある」
技の出を潰したり、視界を遮ったり、体ごと押し込んだりと用途も様々だ。逆に退いて身を固めれば相手に押し込まれる事になる。下手をすると窮地に陥りやすくなるのだ。
「なんでも突っ込めばいいという訳では無いが、覚えておくといい」
「はい!」
素直に頷くセレナにフンボルト辺境伯も相好を崩す。
しばらく戦闘訓練の様子を見学したウィルたちはフンボルト辺境伯の案内で次の場所へ移動した。
「さて、次は城壁から街の眺めを見せてやろう」
「おおー」
心地よい風が吹き抜けて、ウィルたちの髪を揺らす。城壁の上からも街の活気が伝わってきた。転移魔法で室内から入場したウィルたちがルクレストの街並みを見るのは当然初めてだ。その感動があとからやってくる奇妙さも相まって、ウィルたちは一層目を輝かせた。
「素晴らしい景色ですね……護られた街ルクレスト」
「まもられたまちー?」
セレナの呟きに聞きなれない言葉を感じてウィルが顔を上げる。
「そうよ、ウィル。この街は戦争の最前線にあって、一度たりとも敵の侵攻を許さなかったの。だからそう呼ばれてるのよ」
「はー……」
分かったか分からなかったのか、曖昧な返事をするウィル。だが、少しだけ理解できた単語もあって、ウィルはフンボルト辺境伯の顔を見上げた。
「せんそーはだめって、とーさまとかーさまがいってた」
「そうだな」
フンボルト辺境伯がウィルの頭を優しく撫でる。
「どんな綺麗事やお題目を並べても戦争で苦しむのは民だ。民あっての国だというのにな。その事を真に理解する者でなければ、世界がどう変わろうが名君と称されることは無い」
「んー……」
「はは、ウィルベルにはまだ難しかったな」
「そんなことはございませんが!」
背伸びして言い張るウィルであるが、やはり難しいことは理解してないだろう。まだまだお子様なのだ。フンボルト辺境伯もウィルに全てを理解せよと言う気は無い。だから彼も言いたいことだけを続けた。
「戦争終結から十年以上が経ったとはいえ、未だ苦しむ民は大勢いる。それは隣国も同じだ。だから子供たちよ、両親の言うことをよく聞いてソーキサス帝国の民たちを助けてやってくれないか? そうすればフィルファリアとソーキサスは共に明るい未来へと進んでいける」
「はい」
セレナにはフンボルト辺境伯の言葉がよく理解できていた。しっかりと頷いて返す姿は彼女の聡明さや柔らかな表情もあって年に似合わぬ安心感がある。
「わたしも!」
最近、成長著しいニーナも負けじと胸を張る。勢い余って少し心配になるが、彼女の笑顔は不思議と周りを明るくする。とても気持ちの良い娘に成長していた。
「うぃるもー!」
姉たちに習って、ウィルも元気よく返事した。ウィルなりの責任感が芽生えたのかとも思えたが。
「うぃるのまほーでみんなをいっぱいえがおにしてくるー」
違った。ウィルは魔法が使いたいだけだ。ウィルのことを知らない人たちに魔法を見せて笑顔にしたいのだ。
そのことに気づいた姉たちやカルツが思わず苦笑いを浮かべる。まぁ、苦しむ人たちを笑顔にすることはいい事だ。ウィルにもできることはいっぱいあるだろう。
「これは頼もしいな」
「まかせてー」
子供たちのやる気を見て快活に笑ってみせるフンボルト辺境伯の前で、ウィルもまた今回の旅に思いを馳せて満面の笑みを浮かべるのだった。




