第77話 問いの継承
境界が出なかった日でも、ユイは空を見上げる。揺れがないか。違和感がないか。誰に言われたわけでもない習慣だった。
「……相変わらずですね」
隣に立ったミレナが、少し笑う。
「何が?」
「見てるところ。もう、装置のほうが先に反応しますよ」
「うん」ユイは頷く。「でも、見る」
ミレナは、少しだけ黙った。
境界管理が始まってから、彼女の動きは変わった。判断は速くなり、迷いも減っている。代わりに、立ち止まることが増えた。
「……ねえ、ユイ」
「なに?」
「正解って、あると思う? 踏むのが正解とか、管理するのが正解とか」
唐突な問いだった。ユイは、すぐには答えない。少し考えてから、首を振る。
「分からない」
「……即答しないんだ」
「うん。だって、知らないから」
ミレナは、苦笑した。
「前はね、便利な方が正解だと思ってた」
「今は?」
「今は――」彼女は遠くの街並みへ目をやる。「便利だと、考えなくなるって知った」
後悔ではない。気づきだ。
「ユイは、どうして迷えるの?」
ユイは、少し困った顔をした。
「……教えてもらってないから」
「誰に?」
「お兄ちゃんに」
ミレナは、その答えに目を瞬かせた。
「教えてくれなかったんだ。踏む理由も、踏まない理由も」
「だから、毎回、考える」ユイは、また空を見上げる。
風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
「……それ、ずるいね」
「うん」ユイは、小さく笑った。「ずるい」
「でも、羨ましい」
便利さを知ったからこそ、迷いが生まれた。迷いが生まれたからこそ、問いが残った。
丘の上。少し離れた場所で、アレンは二人を見ていた。近づかない。声もかけない。答えを、渡さない。
「……継がれたな」
旅装の男が、静かに言う。
「……ああ」
「思想じゃない。問いが、だ」
その通りだった。正解は残らない。だが、問いは残る。そして問いは、次の世代で形を変える。
自分が残したものは、言葉でも教えでもなく、問いそのものだった。アレンは、それを静かに受け入れている自分に気づく。答えは、これから先の世界が、何度でも出し直せばいい。
空を仰いだアレンの内側で、六つが順に静かになった。若い二人が問いを持っている限り、この手が要る場面は減っていく。減っていくほうがいい、と初めて素直に思えた。
ユイがまた空を指さし、ミレナが釣られて見上げる。何もない、ただ晴れた空だ。それでも二人は、しばらくそこを眺めていた。
見上げる習慣は、誰にも命じられずに残ります。次話、役割を失いつつある者たちの話を。
何もない空をしばらく二人で眺めている最後の数行が好きだった方は、★の評価をいただけると嬉しいです。




