第68話 便利な世界
境界技師エルドの装置は、想像していたよりもずっと静かだった。大仰な詠唱も、目を灼く光もない。境界の前に結晶を据え、指先で数式めいた符号を刻む。それだけだ。
「……これで、終わりです」
エルドが言う。
数分後、境界は何事もなかったように薄れて消えた。空気の張りが、ふっと緩む。
「……踏まなくて、いいんだ」
立ち会っていた若い冒険者が、呆然と呟いた。
「判断も、要りません」エルドは穏やかに言う。「規定通りに据えれば、結果は出ます」
現場に、目に見えて安堵が広がった。誰も迷わず、誰も責められない。
数日で、街の対応は明らかに変わった。
「境界? ああ、技師を呼べばいい」
「踏む踏まないで揉めることもなくなったな」
「事故も、減った」
実際そうだった。被害件数は激減し、対応にかかる時間も縮んだ。
書類の山を繰りながら、ロイドが言う。「……数字だけ見れば、理想だ」
「ああ」
否定できない。
ミレナも、装置を扱う側に回っていた。
「……楽ですね」彼女は正直に言う。「考えなくていい。もう決められてるんです」
それは、ある種の救いなのだろう。判断を背負わなくていい。しくじっても、自分ひとりの罪にはならない。
「……不安は」
俺が聞くと、ミレナは少し考えてから答えた。
「今は、ないです」
正直な答えだった。“今は”という一語が、指先に小さな棘のように残る。
ユイも、街の変わりようを肌で感じていた。
「境界がね」彼は言う。「怖くなくなったの」
良いことのはずだった。怯えていた子が、空を見上げて笑える。それを喜べないなら、俺は何を守ってきたのか。
それでも、違和感は消えなかった。
夜、丘の上で風に当たっていると、旅装の男が現れた。
「順調だな」
「……ああ」
「誰も、困っていない」
「困っていない」俺は繰り返す。「だが、誰も考えていない」
「選ばなくていい世界だ」男は静かに言った。「そして、一度その楽さに慣れたら、人はもう不便へは戻れない」
俺は、目を閉じた。便利さは、いつだって正しい顔をして基準を塗り替えていく。誰かが悪意で壊すより、ずっと確実に。
丘へ上がる途中で、老いた荷運びが道を譲ってくれた。装置のおかげで楽になった、と笑ったあとに、でもあんたが見ていてくれるほうが安心する、と付け足す。
エルドは今、隣街への配備を準備しているという。次の街、その次の街。装置が広がるほど、この違和感を持て余す者は減っていく。俺は、消えない引っかかりを抱えたまま、丘を下りた。
便利さが行き渡ると、慌てる声は消え、代わりに揃った声が増えていきます。




