第67話 境界技師
その男は、冒険者ではなかった。剣も杖も帯びていない。代わりに小脇に抱えているのは、分厚い書類の束と、鈍く光る金属の筒だった。
「初めまして」
男は、丁寧に頭を下げた。「私は、エルドと申します」
「職業は?」
ロイドが、警戒を隠さずに聞く。
「境界技師です」
その言葉に、ギルドの中がざわめいた。聞き慣れない肩書きだ。
「……技師?」
「はい」エルドは、穏やかに頷いた。「境界を解析し、安定させる。それを専門にしています」
初めて耳にする職だ。だが、口ぶりに嘘の響きはなかった。
「目的は」
俺が短く聞くと、即答が返った。
「事故を、減らすことです」
「境界は、もう珍しい現象ではありません。だからこそ、その場その場の勘や度胸に頼らない仕組みが要る」
その一言に、喉の奥が小さく引き攣れた。俺自身が、幾度も勘と度胸で踏み越えてきた。
「……具体的には」
「観測と、抑制です」エルドは筒を机に置いた。蓋を外すと、中から淡く光る結晶が現れる。「発生の初期にこれを据えれば、拡大を抑えられます」
「踏む必要は」
「ありません」
その一言で、空気が変わった。
「踏まないで、抑える……?」
リーファが、思わず呟く。境界を踏むことがどれほどの覚悟かを、彼女は知っている。
「はい」エルドは、少し誇らしげに言った。「判断の負担を、現場から取り除けます」
判断の負担、という言葉が、妙に重く耳に残った。
「失敗した場合は」
「責任は、技師側が負います」
迷いのない答えだった。虚勢ではない。本気で言っている。
「試験運用は、いくつかの街で始めています」エルドが続ける。「成功率は九割を超えました。事故は、目に見えて減っています」
魅力的な数字だ。あまりにも。
ロイドが腕を組み、低く漏らす。「……判断しなくていい世界、か」
「ええ」エルドは頷いた。「誰も、迷わなくて済む」
その瞬間、言葉にできない引っかかりが背筋を這った。迷わなくていい――それはつまり、考えなくていい、ということだ。
「導入は、任意か」
「もちろんです。強制は、しません」
即答だった。だが、と俺は思う。便利なものは、放っておけばやがて“当たり前”になる。任意という言葉が意味を失うのは、いつも後になってからだ。
その夜。丘の上で風に当たっていると、旅装の男が音もなく隣に立った。
「来たな」
「……ああ」
「管理だ」男は続ける。「判断を、人から取り上げる仕組み。しかも、善意でな」
俺は、暮れかけた空を見上げた。「……否定は、できない」
「できないだろうな」男は静かに笑う。「だが、便利さと引き換えに、選ぶ手を一本ずつ折られていく」
エルドは、本気で世界を良くしようとしている。だからこそ、この提案は厄介だった。剣で斬りかかってくる敵なら、対処のしようもある。だが善意には、抜くべき刃がない。
ギルドへ戻る道で、リーファが一度だけ足を止めた。何か言いかけて、結局は「気をつけてください」とだけ言う。踏む覚悟の重さを知っている者の、言い方だった。
翌朝、エルドは最初の一基を据えるため、街外れの境界へ向かうという。俺は、その場に立ち会うことに決めた。自分の目で、確かめておきたかった。
剣も詠唱も要らない解き方は、たいてい正しい顔をしています。その便利さに、次で立ち会います。
「正しい顔」という言い方に嫌な予感がした方は、しおりを挟んでいってください。




