第62話 踏む世代
その冒険者は、迷いなく境界へ近づいていった。
「……待て」
思わず、声が出る。
若い。二十歳そこそこか。軽装で、身のこなしに無駄がない。
「あ、はい?」
振り返った彼女は、驚くほど落ち着いた顔をしていた。
「境界だ。不用意に近づくな」
「分かってます」彼女は、あっさり答える。「踏みますから」
言葉に、引っかかりが一つもない。まるで、井戸から水を汲むとでも言うような口ぶりだ。
「……名前は」
「ミレナです。登録、してますよね?」
言われてみれば、見覚えがある。討伐評価は安定していて、危険行動の記録もない。
「単独で?」
「いえ」ミレナは、後ろを親指で示した。「向こうで、見張りが待ってます」
目をやると、確かに配置は適切だ。退路も、合図の段取りも整っている。
「……理由を、聞いていいか」
「時間短縮です」即答だった。「踏めば五分。踏まなければ三十分。その差で、助かる人が増えるかもしれない」
理屈は、正しい。
「代償は」
「理解してます」ミレナは、少しだけ表情を引き締めた。「記憶か、感覚か、感情。……全部、覚悟の上です」
軽くはない。だが――軽く口にできる世代なのだ。
「誰に、教わった」
「教わってません」その答えに、少し驚く。「見て、聞いて、自分で判断しました」
境界は、もう“秘術”じゃない。ひとつの選択肢として、当たり前に、そこに置かれている。
「止めないんですか」ミレナが、聞いてきた。
「……止めない」
「じゃあ」
彼女は、一歩踏み出した。空気が歪み、距離が縮む。数分後、ミレナは何事もなかったように戻ってきた。任務は、完了。
「……何を、失った」
俺が聞くと、ミレナは少し考えた。
「……雨の匂い」小さく笑う。「嫌いじゃ、なかったんですけどね」
それ以上は、何も言わなかった。感傷も、後悔もない。ただ、受け入れている。
「後悔は」
「今は、ないです」正直な答えだ。「でも」ミレナは続ける。「いつか、するかもしれません」
「それでも、か」
「それでも」彼女は、はっきり言った。「踏みます」
その言葉に、否定は返せなかった。彼女は、間違っていない。俺とは、違うだけだ。
その夜、丘で待っていた旅装の男が、俺の顔を見て言った。
「……軽いな」
「軽い」
「だが」男は続ける。「無責任ではない。責任の取り方が、違うだけだ」
俺は、空を見上げる。
「……止めるべきか」
「止めれば」男は、静かに言う。「お前が“基準”になる。それは、お前が捨てた役割だ」
分かっている。だから、止めない。
境界を当たり前に使って育った世代と、俺は今日、初めて正面から向き合った。彼らは、強い。そして、たぶん脆い。雨の匂いをひとつ差し出して、それきり振り返らない強さは、いつか本人の足元を掬うかもしれない。
去り際、若い三人のうち一人が振り返って、俺の名を確かめるように口の中で繰り返していた。名乗ってはいない。彼らの世代にも、もう届いている。
その両方を抱えたミレナの背中を、俺は黙って見送った。次に彼女が何かを失うとき、それを一緒に惜しめる誰かが、そばに残っていればいい。
新しい世代が育つとき、後に残るのは技術か、それとも基準か。次話、机に積まれた紙束を眺めます。




