第60話 選ばれなかった道
その報告は、朝一番に届いた。
「……東の、湿原都市だ」ロイドが、地図の一点を指の背で叩く。「境界発生の兆候。規模は、かなり大きい」
俺は黙って聞いていた。
「都市側は、お前を指名してきた」
予想はしていた。湿原都市は、境界を“使う”と決めた街だ。踏むことを恐れず、その判断で実際に被害を抑えてきた実績がある。
「条件は」
「常駐。判断は、すべてお前に委ねる、と」
つまり、俺が行けば救える。間違いなく。
リーファが、俺の横顔をうかがう。
「……行かない、んですよね」
「ああ」
即答だった。理由は、いくつもある。だが、一つで足りる。
「そこは、俺が行く場所じゃない」
ロイドは、何も言わなかった。分かっているからだ。湿原都市は、“踏む”という選択を、すでに自分たちの手で下している。そこへ俺が入れば、判断は俺のものになる。それは、彼らが選び取った道を、横から奪うことだ。
昼過ぎ、街の外れでユイとすれ違った。
「お兄ちゃん。どこか、行くの?」
「いや」俺は首を振る。「行かない場所が、あるだけだ」
ユイは、少し考えてから言った。
「……それって、大事?」
「大事だ」
「じゃあ、ぼくも踏まない」ユイは、小さく笑った。
その言葉が、胸に残った。選ばれなかった道は、無意味じゃない。誰かがそこを歩いている。
夕方、丘へ上がった。空が、湿原のある東の方から、ゆっくり茜に染まっていく。
「見送ったな」旅装の男が、隣に並ぶ。
「……ああ」
「後悔は」
「ある」否定しない。「だが、行けば、もっと後悔した」
男は満足そうに頷いた。
「それでいい。世界は、一人で救うものじゃない。だが――一人が踏まないことで救われる形も、確かにある」
言い終えると、男は東の空へ一度だけ目をやり、それから夜の側へ歩き去っていった。
翌朝、掲示板に、新しい依頼が貼られていた。討伐、護衛、調査。その並びの中に、一枚。
件名:境界観測
発行元:湿原都市
備考:自立対応を前提とする
俺は、それを見て、小さく息を吐いた。“指名”は、“自立”に書き換わっていた。選ばれなかった道は、消えたわけじゃない。ただ、そこを誰かが歩き始めただけだ。
境界は、これからも現れる。人はこれからも踏む。それでも、踏まない者がいて、考える者がいて、選ぶ余地が残る限り、世界はまだ壊れない。
ただ、ひとつ引っかかっていた。昨日ロイドが指の背で叩いた、あの地図。湿原よりさらに東の、まだ誰の依頼にもなっていない白い一帯。境界が“広がる”のとは違う――何かが、そこを静かに均していくような。うまく像を結ばないその予感に、俺はまだ名前を与えられずにいた。
掲示板の隅に、誰かの手書きの紙が貼られていた。“判断に迷ったら、まず自分で数える”。字は下手で、名前もない。俺の言い回しが、俺のいない場所で回り始めている。
だから俺は、次も自分の足で依頼を選ぶ。誰かの道を奪わずに済む一枚を、この掲示板から。
使う街と、使わない街。次話では、境界が出ても誰も驚かなくなった日常を歩きます。
名前も知らない誰かが掲示板に貼った「まず自分で数える」の一枚にふっと笑った方は、ブックマークをいただけると励みになります。




