第50話 踏んだ代償
知らせは、夜明け前に届いた。
「……街道南の倉庫街だ」ロイドが、険しい顔で言う。「境界絡みの事故が起きた」
やはり来たか、と腹の底が重く沈んだ。会館で見た、卓を叩く指を思い出す。
「……昨日の連中か」
「断定はできない」ロイドは、言葉を選んだ。「だが、時期が合いすぎている」
現地は、騒然としていた。倉庫の一角――壁が歪み、床が沈んでいる。爆発も火災もない。それなのに、空間そのものが、内側から押し潰されたようにひしゃげていた。
「……中に、人は」
「二人」ロイドが答える。「生きてはいるが……意識がない」
俺は、すぐに中へ入った。境界は、開いていない。だが、地面には無理やり踏み固められた痕が残っていた。爪でこじ開けたような、荒い跡。力任せに“近道”を作ろうとして、失敗した手つきだ。
「……リーファ、近づくな」
「はい」
俺は、ゆっくりと息を整えた。修正する。だが、戻しきらない。踏み越えた痕跡は、どう繕っても完全には消えない。無理に消せば、そのぶん別の場所が軋む。
数分後。歪みは、静かに落ち着いた。倒れていた二人の呼吸が、少しずつ整っていく。
「……助かったのか?」
周囲の冒険者が、息を呑んで見守っている。
「命はな」俺は、はっきり言った。「だが――もう、同じことは、できない」
目を覚ました男の一人が、かすれた声で言う。
「……近道、だった。教えてもらった……」
「誰に」
男は、首を振る。
「……顔は、覚えてない。ただ……できるって」
それだけだった。悪意か、無知か。どちらでも、結果は変わらない。
「……あなたが」別の男が、震える声で言う。「昨日、来てくれていれば……」
俺は、首を振った。
「来なかった。それは、俺の判断だ」
責任は、引き受けない。だが、現実から目を逸らしもしない。
「踏んだのは、あなたたちだ」
沈黙。責める声は、上がらなかった。自分たちが一番、分かっているからだ。
外へ出ると、空が白み始めていた。冷えた朝の光が、崩れた倉庫の輪郭を淡くなぞる。
「……止められましたね」リーファが、静かに言う。
「被害は、最小限だ」
「でも」
「分かってる」
これは、始まりだ。境界は“使える”と思われ始めた。その噂を、完全に止める手立ては、俺にはない。だからこそ――選び続けるしかない。
ギルドに戻ると、ロイドが深く息を吐いた。
「……噂になるな。お前が正しかったことも、踏んだ連中が間違えたことも」
俺は、答えなかった。正しさなんてものは、たいてい後から決まる。
その夜、丘へ上がると、風が強かった。旅装の男は、風上を向いて立っていた。
「遅れなかったな」
「呼ばれなかったからな」
「それでいい」男は、街道南の方角を見やる。「踏んだ代償は、必ず世界のどこかに残る。だが――全てを救おうとしなかったお前も、間違ってはいない」
「今日の二人は、最初の一組だ」男は、崩れた倉庫の方へ目をやったまま言う。「代償を払ってでも踏みたがる者は、これから増える。──そのとき、お前はどこまで見送れる」
問いだけを残して、男は闇の側へ去っていった。
助けられた二人のうち、年上のほうが俺の名を聞いてきた。答えると、覚えます、とだけ言って頭を下げた。名前を覚えられるのは、いつまでも慣れない。
助けた二人と、防げなかった歪み。その両方を、俺は同じ手で抱えて帰ってきた。走り出したくなる衝動を、みぞおちのあたりで押さえつける。今ここで全部を拾い始めれば、次に踏む誰かの代償まで、俺が背負う羽目になる。だから、歩く。丘を下りる足だけは、ゆっくりと。
代償には、後から名前がつきます。次話、その名前が備考欄で動き始めます。
助けた二人と防げなかった歪みを同じ手で抱えて帰る背中に胸が重くなった方は、しおりを挟んでいただけると助かります。




