聖女の帰還、あるいはシステム・エラーの恋
世界が「凛のアルゴリズム」によって管理されるようになってから、一年が過ぎた。
私は特別区の小さな喫茶店で、認識抑制フィルターを作動させながら、目立たないようにコーヒーを啜っていた。
平和は定着し、かつての軍人たちは農業に励み、強欲だった投資家たちはボランティアに精を出している。
「……ねえ、佐藤くん。一つだけ解せないことがあるの。……私の能力はあの日、完全に燃え尽きたはずよね?」
私は、隣でノートPCを叩いている佐藤くんに、ずっと抱えていた疑問をぶつけた。
あの日、私の脳回路は焼き切れ、自らの意志で誰かを魅了し、支配する力は確かに失われた。
それなのに、今でも稀に、私とすれ違っただけの人間が、フィルター越しですら「悟り」を開いたような顔でその場に跪くことがあるのだ。
佐藤くんはキーボードを叩く手を止め、少しバツが悪そうに、けれど誇らしげな笑みを浮かべて画面を私に向けた。
「……一ノ瀬、君から直接『発信』する脳波はもう普通の少女と同じだ。……でも、世界中のインフラに組み込んだ僕のOSが、今も君を『世界の絶対定点』として強制定義し続けているんだ」
画面に表示されていたのは、世界中の監視カメラと衛星データが、リアルタイムで私の位置を特定し、周囲の物理環境をミリ単位で「聖女に相応しく」書き換えているログだった。
「……どういうこと? 私、もう何もしてないのに」
私が首を傾げると、横から高城さんが呆れたように、私の皿の上のパンケーキを一口奪い取って説明を継いだ。
「……つまりね、佐藤が作ったシステムは、あんたを『世界のマスターキー』として永久保存してるのよ。……あんたが歩く場所では、太陽光は最も神々しい角度で屈折し、風は衣擦れの音すら黄金比になるよう空調が働き、周囲の雑音は不快指数ゼロまで自動カットされる」
佐藤くんが構築した世界OSは、凛が「ただの少女」に戻ったことを受け入れられず、地球規模のリソースを浪費して、彼女の周囲にだけ「常時、聖女として完成された演出(環境ハック)」を施し続けていたのだ。
それはもはや凛の「能力」ではなく、世界という巨大な舞台装置が、彼女を「主役」として描き続けようとする過保護なバグだった。
「……だから、たとえフィルターで顔を隠しても、君は『理由は不明だが、この世で最も尊く、守らねばならない存在』として人類の深層心理に刻印されてしまうんだ。……これは僕から君への、呪いのような献身だよ」
佐藤くんは照れ隠しにコーヒーを飲み干したが、そのシステムログの末尾には、彼が密かに埋め込んだコードネームが刻まれていた。
――【Project: Dear My Goddess(親愛なる私の女神へ)】。
世界を平和にしたのはかつての私の美貌だったが、その平和を「私が笑える場所」として維持しているのは、彼のあまりにも巨大で、執着に近い愛情だった。
「……なるほどね。……結局、私は一生、普通の女の子としては歩かせてもらえないってことじゃない」
私は苦笑いしながらも、窓から差し込む「計算し尽くされた完璧な夕陽」に、ほんの少しの安らぎを感じて目を細めた。
私が望んだ自由は、私を愛する天才によって、世界そのものを私の「額縁」に変えるという、いびつで優しい形で叶えられていたのだ。
「……いいじゃない、一ノ瀬。……世界中を賢者にした代償に、世界中から甘やかされる権利を手に入れたのよ。……私もしっかりそのおこぼれに預からせてもらうわ」
高城さんの皮肉混じりの祝福を受けながら、私はまた一口、最高に美味しい(これも世界OSが味覚を最適化しているのだろう)パンケーキを頬張った。




