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嫉妬の黒雲、赦しの一閃

「灰毛っ!」


 血を吐きながらも、よろめく足で駆け寄るバニッシュ。

 地に倒れ伏すその男の呼吸は浅く、掠れるように震えていた。

 まだ生きている――そう判断した瞬間、バニッシュは必死に両手をかざし、回復魔法の詠唱を始めようとする。


 だが。


 ――ギィ……。


 不気味な音を立て、前方で影が揺れる。

 視線を上げたその先で、ミレイユがゆらりと立ち上がっていた。

 肩口には深々と突き刺さっていた槍があったはずだ。

 だが彼女はそれを無造作に掴み、ずるりと肉を裂きながら引き抜き、血飛沫と共に地に投げ捨てた。


 「……ッ!」


 その顔は、怒りと増悪に焼き尽くされていた。

 眼差しは血の色を帯び、唇の端には嗤いが浮かぶ。

 バニッシュは反射的に身を竦め、視線が揺れる。


 なぜだ……。

 どうしてこうなってしまった……。


 胸の奥に渦巻く迷いと痛み。

 彼女はかつて、努力を惜しまず、憧れの人へ届こうと必死に手を伸ばしていた。

 自分が知っている彼女は、こんな怪物ではなかったはずだ。


 そのとき。


「……た……のむ……」


 掠れた声が耳に届いた。

 視線を落とすと、灰毛が最後の力を振り絞り、血に濡れた口から一言を紡いでいた。

 その眼差しは既に虚ろで、言葉を残すと同時に意識を手放す。


「……!」


 バニッシュの目が大きく見開かれる。

 灰毛の「頼む」という言葉――それは己に託されたものだと、否応なく理解した。


 「……灰毛……!」


 奥歯を噛み締め、拳を強く握る。

 鳴心環が胸の奥で脈打つ。

 まるで背中を押すように、鼓動が戦場の静寂に響いた。

 まだ迷いはある。

 だが――それでも。

 バニッシュはふらりと立ち上がった。

 血に濡れた額から汗が滴り落ちる。

 その視線が、ゆっくりとミレイユへと向けられる。

 彼女は嗤っていた。

 雷光を纏い、狂気に満ちた瞳で。

 対峙するバニッシュの瞳には、なお揺らぎが宿っている。

 けれども――その奥に、確かな決意の火が灯り始めていた。


「ミレイユ……」


 その声はかすれていたが、確かに敵へと向けられたものだった。

 こうして、迷いと覚悟の狭間に立つ男と、狂気に染まった女とが、再び正面から対峙した。

 立ち上がるバニッシュの姿に、ミレイユの紅く濁った瞳がぎらついた。


「なに……? アンタ、まだやる気なの?」


 その声音は怒りと憎悪が入り混じり、すでに正気の光を宿してはいなかった。

 肩口からは灰毛に貫かれた傷口がなおも血を噴き、腕は力なくぶら下がっている。

 常ならば戦闘どころか立つことすら困難なはずだ。

 しかし、彼女はまだ戦意を捨ててはいなかった。

 バニッシュはその様を見て、低く震える声で言った。


「その傷じゃ……もう無理だ。頼むから……引いてくれ」


 ミレイユの眉がぴくりと動く。


「……アンタはいつもそう」


 俯いた彼女の口から漏れる声は、まるで独り言のようでありながら、鋭い刃のようにバニッシュの胸を突き刺した。


「くだらない偽善で、誰かに手を差し伸べて……。役に立たないくせに、いつも慕われて……」


 肩で息をしながら顔を上げたミレイユの表情は、もはや醜悪なほどに歪んでいた。


「――それが、うざいのよ!」


 叫びと共に、残った片腕に膨大な魔力が収束していく。


「補助しかできないアンタが! アンタさえ……アンタさえいなければッ!!」


 紫黒の雷が再びうねりを上げる。

 怒りと怨嗟が魔力に変換され、彼女の周囲を渦巻いた。

 バニッシュはその姿を前にして、ほんの一瞬だけ目を瞑る。

 カイル、ミレイユ、かつての仲間たち。

 彼らが自分をどう思っていたか――その答えを突き付けられるのは、今この瞬間かもしれない。

 それでも、彼は目を開いた。

 濁流のような殺意を放つミレイユを、真正面から見据える。


「……俺は」


 静かに紡がれる声が、張りつめた空気を裂いた。


「俺は、俺にできることをやるだけだ」


 両手を広げ、魔力を練り上げる。

 これまでのような単純な結界の展開ではない。

 拠点でセレスティナと共に積み重ねてきた古代魔法の原理。

 精緻に刻まれた術式、星の流れのように重なり合う魔法陣の構築法。

 自身で積み上げてきた魔法理論。

 その二つを融合させ、バニッシュは自分だけの答えを見出していた。

 彼の掌から展開される光は、従来の淡い結界の輝きとは違っていた。

 幾重にも重なる術式の層が、星辰のごとく煌めき、光と闇が交錯し、なお均衡を保ちながら形を結んでいく。


「これが……俺の、新しい結界だ」


 彼の低い呟きと共に、地に淡い蒼の光が走り、空間を覆うように立ち上がる。

 それはただの防壁ではない。

 世界に刻まれた理そのものを書き換えるかのような、禍々しさと荘厳さを兼ね備えた結界だった。

 黒雷龍牙閃アビス・ボルト・ドラゴンファング――それは空と地を引き裂き、世界を丸ごと呑み込むかのような破滅の顎を備えた龍となって、咆哮を上げながらバニッシュへと迫った。

 大気は灼かれ、地を覆う岩までも黒く焦げ落ち、大地を破壊する威力。

 バニッシュは一歩も退かない。震える足を踏みしめ、鳴心環の鼓動と共に術式を重ねる。


「――結界展開、鏡律封陣アーク・リフレクション・カージ!」


 瞬間、彼の前に展開されたのは半透明の光壁。

 古代魔法の理を織り込み、自らの補助結界術と融合させた新たなる術式。

 その表面はまるで鏡のように煌めき、迫る雷龍を呑み込むと同時に逆流させた。


 「なっ――!」


 ミレイユの双眸が見開かれる。

 黒雷龍牙閃は弾けるように分裂し、無数の稲妻と化して逆流する。

 龍の顎は砕け、雷撃の奔流となり主であるミレイユ自身を襲った。


 「――ァァアアアアッ!」


 切り裂かれるような悲鳴。

 宙を舞う紫電が彼女の身体を打ち据え、地を裂きながら軍幕の残骸を吹き飛ばす。

 やがて稲妻の奔流は収まり、煙立ち込める戦場にミレイユは倒れ伏した。

 バニッシュは荒い息をひとつ吐き、後ろを振り返る。


「……灰毛!」


 すぐさま駆け寄り、両の掌に癒しの光を宿す。

 蒼白な光が灰毛の裂けた肉を覆い、荒い呼吸を少しずつ穏やかに変えていく。

 瀕死に近かった呼吸が落ち着き、わずかに動いた唇から低い声が漏れた。


 「……よく、やった……感謝する……」


 その言葉に、バニッシュの顔はわずかにほころぶ。

 重く沈んでいた心に、ひとしずくの救いが差し込むようだった。


 しかし――。


 「……ふ、ふふ……ふふふふ……」


 背筋を凍らせるような笑い声が、背後から響いた。

 反射的に振り返るバニッシュ。そこには地に倒れ伏していたはずのミレイユが、肩を震わせながら笑っていた。

 血に塗れ、髪は乱れ、肩口には深い傷が刻まれている。

 それでもその瞳はなお妖しい光を帯び、狂気に濡れた笑みを浮かべていた。


 「……これで……私が終わるとでも?」


 その声は、雷鳴にも似て不気味に低く響いた。

 仰向けのまま倒れていたミレイユは、荒い呼吸を繰り返しながら、震える手を懐へと差し入れた。

 その手が掴み取ったのは、漆黒に濁った光を宿す――黒いオーブ。

 表面は脈打つように不気味な光を走らせ、触れるだけで生気を削ぐような禍々しい冷気を放っていた。


 「な……なにを……!」


 バニッシュの瞳が見開かれる。



 ルガンディア侵攻の前夜。ミレイユは、フードの男と密かに会っていた。


 「……これは?」


 と怪訝に問いかけた彼女の目の前で、フードの男は静かに差し出した。


 「もし万が一の時のための保険ですよ」


 低く囁くその声音には愉悦が滲んでいた。


 「出来れば、使わないに越したことはありません……ですが――もしもその時が来たなら」


 フードの奥で、確かに口角が吊り上がったのをミレイユは見た。


 「……あなたの“望み”を叶えるために、これを」


 


 その黒きオーブが、ミレイユの手で天に掲げられた。


 「……や、やめろ! ミレイユ!」


 バニッシュの叫びは、切羽詰まった悲鳴のように震えていた。

 だが、もう遅い。

 オーブの中から滲み出すように黒い瘴気があふれ出し、渦を巻きながらミレイユの身体を包み込む。

 空気は急速に冷え込み、ただ吸い込むだけで肺が焼けるような毒気を孕んでいた。


 「……ふふ……あは、あははははっ!」


 苦痛に歪んでいた顔は、狂気の笑みに変わる。

 血に濡れた唇の端からは鮮血が滴り落ち、それすらも黒い霧に溶けていく。

 オーブの輝きはますます強まり、彼女の肉体と同化するように胸へと吸い込まれた。

 次の瞬間、軍幕を焼き尽くした雷撃すら生温いと感じるほどの邪悪な魔力が爆ぜる。

 バニッシュは腕で顔を覆いながら後ずさる。


 「……これは……人の身で扱っていい代物じゃない……!」


 黒い瘴気の中、ミレイユは立ち上がった。

 肩からはまだ血が滴り落ちているはずなのに、その傷は瘴気が覆い隠し、もはや痛みさえ忘れたかのように。

 瞳は完全に狂気に染まり、かつて仲間と共に未来を夢見た少女の面影はどこにもなかった。


 「見てなさい、バニッシュ……! これが、私の力よ……! この世界を塗り替える……本当の力……!」


 その声は雷鳴の轟きと共に、戦場全域に木霊した。

 黒いオーブの瘴気は、ミレイユの肉体に完全に融け込んだ。

 次の瞬間、彼女の身体は痙攣するように震え、骨が軋み、肉が鳴動し――形を変えていく。


 「あ、あああああ……ッ!」


 悲鳴とも快楽ともつかぬ声が喉から漏れ出す。

 瞳は赤黒く濁り、白目の部分までも血に染まったように赤黒い光を宿す。

 肌は人のもののままながらも、血管は黒い雷のように浮かび上がり、指先からは紫電が迸る。

 髪は逆立ち、黒い瘴気が炎のように靡いていた。

 もはやその姿は人であって人ではない。

 ――魔人。

 ミレイユは人の形を保ちながら、異様でおぞましい存在へと変貌を遂げていた。


 「……ミレイユ……!」


 バニッシュは強く奥歯を噛みしめた。

 狂気に染まった彼女は、ゆらりと宙に浮かび上がる。

 軽く腕を振り上げただけで、空気が裂け、轟音と共に雷撃の波動が奔った。


 「――ッ!」


 バニッシュは咄嗟に両手を交差させ、術式を展開する。


 「鏡律封陣アーク・リフレクション・カージ!」


 光の結界が空間に展開され、鏡のように相手の攻撃を反射するはずだった。

 だが――。

 ミレイユが放った雷撃の波動は、鏡面結界をまるで紙細工のように砕き散らした。

 反射する間もなく、圧倒的な力で叩き潰されたのだ。


 「くっ……!」


 バニッシュは腕で顔を庇いながら後退する。衝撃で地面が抉れ、背後の岩が粉々に砕け散った。

 宙に浮かぶ魔人の女は、愉悦に濡れた笑みを浮かべていた。


 「これよ……! これが力……! 世界を変えられる、本物の力……!」


 両腕を大きく広げる。

 その掌から奔ったのは、黒い稲妻。

 無数の稲妻は大地を穿ち、岩を裂き、軍幕の残骸を焼き砕く。

 雷の奔流が暴風のように周囲を蹂躙し、木々は黒焦げに、土は融けガラスのように光を帯びた。


 「はは……ははははははははッ!」


 狂気の笑い声が、雷鳴に重なって戦場に響き渡る。

 その姿は、かつて勇者と共に肩を並べた仲間の面影など微塵も残さず――ただの「災厄」と化していた。


 「……俺は……」


 黒雷の奔流が空を裂き、大地を焼き尽くす。

 その凄まじい光景を前に、バニッシュは膝をつき、拳で地を叩いた。


 「……っ、くそッ……!」


 拳が砕けた土にめり込み、鈍い痛みが腕を駆け上がる。

 だがそれ以上に胸を締めつけるのは――止めることができなかった自分の無力さ。

 救うと誓った仲間を、狂気に呑まれたミレイユを、結局救えなかった情けなさ。


 「俺は……何もできなかった……!」


 吐き出した声はかすれ、雷鳴にかき消される。

 その後ろで、よろめくように立ち上がる影があった。


 「……まだ、終わってはいない」


 低く、だが確かに響く声。

 振り返ったバニッシュの目に映ったのは、血に濡れ、傷だらけになりながらも立ち上がる灰毛の姿だった。

 バニッシュの回復魔法でわずかに動けるようになった彼は、足を引きずりながらも真っすぐに魔人と化したミレイユへ歩を進める。


 「な、何をする気だ……!? お前の身体は……もう戦える状態じゃ――」


 叫ぶバニッシュの声を背に、灰毛は一度も振り返らずに答えた。


 「……あの者を、倒す」


 バニッシュの胸に冷水が流れる。

 その言葉に、ただならぬ覚悟が込められていることを悟ったからだ。


 「無理だ! 傷は癒えたとはいえ、動けるのがやっとのはずだ! 死ぬぞ!」


 必死に叫ぶ。

 だが、灰毛は一つだけ間をおき、重く、ゆっくりとした声で続けた。


 「……俺には、守るものがある」


 散っていった部下たちの顔。

 生まれ育った故郷ルガンディアの大地。

 そこに暮らす人々の笑顔。

 そして、忠誠を掲げたツヅラの存在。


 ――すべてを守るために。


 「たとえこの命が尽きようとも、守らねばならんものがある」


 その背は、傷ついた戦士ではなかった。

 重い責務と誇りを背負う、一人の獣人戦士の姿だった。


 「……!」


 バニッシュは息を呑む。

 心の奥に刺さる、鋭くも温かな言葉。

 そして背を向けたまま、灰毛はぽつりと続けた。


 「……お前も、同じであろう?」


 その瞬間、バニッシュの心に鮮やかな光景がよみがえる。

 拠点で共に笑い合った少女――リュシア。

 冷静に、共に理を紡いでくれたセレスティナ。

 共に結界の強化のために試行錯誤してくれた鍛冶師、グラド。

 拠点で帰りを待つ獣人一家――ザイロ、メイラ、ライラ、フォル。

 かけがえのない日常を彩る人々。


 その全てを守るために、自分はここまで歩んできたのだ。


 「……俺は……!」


 ぐっと歯を食いしばり、拳を握る。

 鳴心環が胸元で脈打ち、痛みではなく力を刻むように拍を響かせた。

 それは、彼の迷いを断ち切る音だった。

 禍々しい黒雷が空を裂き、荒れ狂う竜の咆哮が戦場を揺るがした。

 その矛先は、ただひとり。


 ――バニッシュ。


 「バニッシュ……ッ!」


 憎悪に濁った声を張り上げ、ミレイユは宙から黒雷龍牙閃を放つ。

 黒き雷龍は瘴気を纏い、空気すらも焦がしながら一直線に走る。

 それは大地を割り、すべてを呑み砕く破滅の化身だった。

 黒き雷龍が咆哮し、天地を震わせながら奔流となって迫る。

 禍々しい瘴気を纏い、空気そのものを焦がすような殺意の塊。


 「……ッ!」


 灰毛の言葉に心を揺らしていた刹那、バニッシュの判断は一瞬だけ遅れた。

 死を覚悟したその瞬間――激しい衝撃に体が横へ弾かれる。


 「な……っ!」


 見開いた視界に映ったのは、己を突き飛ばした灰毛の背だった。

 深紅に濡れた背中は満身創痍、立つのもやっとのはずなのに、その足は大地を強く踏みしめていた。


 「灰毛――ッ!」


 返事はない。ただ振り返りもせず、迫り来る黒雷龍を正面から受け止めるように立ちはだかる。


 「……ルガンディアを……みんなを……頼む。」


 かすれた声が雷鳴の中でもはっきりと耳に届いた。

 次の瞬間、黒き残光と共に灰毛の姿は雷龍に呑み込まれる。


 「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉ――――ッ!!!」


 バニッシュの喉を裂くような叫びが戦場に木霊する。

 だがその声をも、黒雷龍は呑み込み、跡形もなく灰毛を消し去った。


 ――託されたのだ。


 最後まで戦士として。

 仲間を、故郷を、そして未来を信じ、命を賭して託したのだ。

 バニッシュは地を握り締める。土が爪に食い込み、血が滲む。

 その胸元で、鳴心環が強く脈打っていた。

 まるで灰毛の鼓動が宿っているかのように。


 「……灰毛……!」


 熱い涙が頬を伝う。だが俯く時間は終わった。

 懐の拍動に呼応するように、腰に佩いた《破邪の剣》が淡い光を帯び始める。

 伝説の鍛冶師グラドが打った魔剣、それがバニッシュの想いと魔力によって姿を変えできた『破邪の剣』その刃が、託された想いに呼応するように震えていた。


 「……そうだな……俺には……守るものがある」


 重く、しかし確かな声。

 その声に呼応するかのように破邪の剣がさらに輝きを増していく。

 宙に浮かび、狂気に満ちた笑みを浮かべるミレイユが高笑いを上げる。


 「キャハハハ! 見た!? 仲間を犠牲にしてまで生き延びたその姿を! さあバニッシュ! 次はアンタの番よぉぉ!!!」


 だが、バニッシュはその嘲りを受け流すように立ち上がる。

 足は重い、全身は傷だらけ。だがその目は、もう迷いも恐れもなかった。

 ゆっくりと、しかし揺るぎない動作で破邪の剣を抜き放つ。

 淡き光を帯びた刃が、荒れ狂う雷雲の下でひと筋の希望のように煌めく。

 そして、真っ直ぐに宙のミレイユを射抜く。

 その眼差しは――ツヅラがかつて口にした「英雄の目」そのものだった。


 「……灰毛、見ていてくれ。俺は、もう……迷わない」


 ミレイユの絶叫が戦場を震わせる。


 「さあ――これで終わりよ! バニッシュ!!」


 両腕を天に掲げ、その掌に黒き瘴気を纏った魔力を渦巻かせる。

 空気が震え、雷鳴が轟き、天と地を繋ぐ黒き竜が形を成す。


 ――黒雷龍牙閃アビス・ボルト・ドラゴンファング


 それは、今まで彼女が放ったどの魔法よりも禍々しく、強大だった。

 怒り、憎悪、嫉妬、そして深き嘆き……そのすべてが混じり合い、巨大な黒雷龍となってバニッシュに襲いかかる。


 「消えてしまええぇぇぇぇぇ!!!」


 咆哮と共に、黒雷龍は大地を抉り空を裂き、天地を呑み込む勢いで迫る。


 しかし――。


 その雷龍を前にしても、バニッシュの瞳は揺らがなかった。

 自分の弱さを知った。

 無力さを噛み締めた。

 そして――仲間から託された想いの重さを、胸に刻んだ。

 その想いが、彼の心を、剣を、突き動かしていた。

 腰に佩いた【破邪の剣】が、拍動のように強烈な光を放つ。

 鳴心環の鼓動と共鳴するかのように、その刃は眩き輝きを纏い、天の闇を裂く希望の灯となる。


 「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!!!」


 バニッシュは咆哮を上げ、迫り来る黒き雷龍を剣で正面から受け止めた。

 轟音。

 衝撃波が大地を揺らし、空を裂き、衝撃波で周りを吹き飛ばす。

 黒雷龍に込められたのは、ミレイユのすべての感情。

 怒り、憎悪、妬み、そして――かつて抱いた淡い憧憬すらも呑み込み、濁った狂気と化していた。

 それを、バニッシュは全身で受け止める。

 歯を食いしばり、足を震わせながら、それでも一歩、また一歩と前へ進む。


 「ぐ……ぅぅ……!! ミレイユ……ッ!!」


 雷鳴が体を裂き、皮膚を焼き、結界を砕く。

 それでも倒れない。

 倒れてはならない。

 仲間の想いが、この背を押している。

 灰毛の声が、ツヅラの言葉が、リュシアやセレスティナ、グラドたちの笑顔が――この胸にある。


 「俺は……一人じゃない!!!」


 その叫びと共に、破邪の剣が眩い閃光を放つ。

 剣先が黒雷龍を裂いた。

 禍々しい瘴気が弾け、雷龍が悲鳴を上げるように形を崩していく。


 ――裂かれた。


 黒雷龍牙閃は、その全ての力を無に帰され、破邪の剣の光に弾き飛ばされる。

 爆裂する雷撃の残滓をかき消し、バニッシュは光の軌跡を残して飛んだ。

 その眼は、ただ一人――ミレイユを射抜いていた。


 「な……に……!?」


 ミレイユの赤黒い瞳が大きく見開かれる。

 自らの最強の魔法が切り裂かれ、跳ね返されるなど想像すらしていなかった。

 一瞬、その心が空白になった。

 その一瞬――バニッシュにとっては、十分だった。

 破邪の剣が振り上げられる。

 交差する視線。

 バニッシュの瞳は、もう迷わない英雄の目。

 ミレイユの瞳は、驚愕と恐怖に揺らぐ、狂気を宿した魔人の目。


 「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」


 袈裟斬りの一閃。

 光の軌跡が宙を裂き、ミレイユの体をとらえた。

 血飛沫ではない。

 黒い瘴気が切り裂かれ、悲鳴を上げながら宙に散る。


 ――勝負は決した。


 破邪の剣を振り抜いた勢いのまま、バニッシュは膝を折るようにして地へと降り立った。

 背後で、宙に浮かんでいたミレイユの体が絶叫と共に切り裂かれる。

 黒き瘴気が噴き出し、火花のように散り散りに霧散していく。

 邪悪な力は――剣に断たれ、虚空に溶けた。

 地へと叩きつけられたミレイユの身体は、どさりと音を立てて横たわる。もう魔人の異形ではない。

 血に濡れながらも、人の姿へと戻っていた。


 「……」


 バニッシュはゆっくりと歩を進め、倒れ伏すミレイユの傍らに立った。

 その目は虚ろで、呼吸は細い。

 彼女は血を吐きながら、かすれた声で呟いた。


 「……なんで……アンタなのよ……」


 その言葉には、ただの悔しさや敗北の痛みではなかった。

 かつて勇者と讃えられ、自分が心を焦がした想い人――カイルではなく、

 「お荷物」「地味」「若くない」と追放したはずのバニッシュが、今は光の場所に立っているという――どうしようもない嫉妬と妬みが込められていた。

 バニッシュはその意味を悟ると同時に、胸の奥で深く痛みを覚える。

 救えなかった仲間への悔しさ。

 無力だった自分の過去。

 それでも最後に、彼女を人として戻すことができたのだというせめてもの思い。


「……俺は、救いたかったんだ」


 低く、誰に向けるでもなく呟く。

 その声に応えるように、ミレイユの口元がほんの僅かに歪む。


「だから……うざいのよ……」


 そう微かに笑ったような顔で、彼女は静かに息を引き取った。

 バニッシュはしばし黙って立ち尽くし、やがて天を仰ぐ。

 ミレイユの死と共に、空を覆っていた黒雲はゆっくりと裂け、差し込む光が大地を照らす。

 涙は流さなかった。

 ただ、心に深く刻む。

 かつて共に歩んだ仲間の最期を――そして彼女の矛盾した叫びを、決して忘れぬと誓うように。

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