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南天に轟く群律

 ――闇に閉ざされた檻の中。


 冥柩の檻(ノクターナル・カスク)

 禍々しい黒紫の鎖が幾重にも絡みつき、ツヅラの四肢を縛っていた。

 ただ力で引きちぎることも叶わず、群律の言ですらかき消される異質の牢獄。

 その中でツヅラは、鋭く金色の瞳を細め、機を窺っていた。

 フードの男は檻の外に立ち、低い声で詠唱を続けていた。

 彼の背後にはゆらりと空間の裂け目が広がり始めている。

 異界へと通じるゲート。

 ツヅラを「連れて行く」ための道だ。

 その時だった。


 ――ドゥン、と空気が震える。


 軍幕を越え、戦場全体を圧倒するほどの膨大な魔力が奔流のように溢れ出した。

 それは東側の戦線からだった。


 「……これは……?」


 フードの男がふいに顔を上げる。

 フードの奥の双眸が、異様な輝きを宿した。

 その魔力は覚えがあった。

 彼の記憶に刻まれた、世界を震撼させる存在。


 「おお……! まさか、まさか……!」


 両手を広げ、東の空へ向けて恭しく掲げる。

 その仕草は、尊き王に忠誠を捧げる臣下のようでもあり、狂信者が神を仰ぐ姿のようでもあった。


 「……この地にいらっしゃったのですか。災厄の継承者――その血を引くお方が……!」


 その瞬間、ツヅラの瞳が鋭く光った。


 ――隙。


 フードの男の注意は完全に東へと逸れていた。

 冥柩の檻を維持していた力が、一瞬だけ緩む。


 「……爆ぜぇ!」


 低く鋭い声が戦幕を裂く。

 群律の言が発動し、檻を構成していた黒紫の鎖が内側から爆ぜるように砕け散った。


 「なっ……!」


 フードの男が振り返ったときには、すでに遅い。

 ツヅラの影は閃光のごとく間合いを詰めていた。

 金の瞳は怒りに燃え、伸びた獣爪は鋭い刃のように閃く。

 鋭い爪がフードの男の腹を容赦なく貫いた。

 確かな手応え――が、なかった。


 「……ッ!?」


 ツヅラは眉をひそめる。

 爪は確かに肉を裂き、骨を砕くはずだった。

 だがそこにあったのは空虚。

 抵抗のない影を貫いたかのような感触だけ。

 フードの男は腹を貫かれたまま、まるでそれを楽しむかのようにくぐもった笑みを零す。


 「ふふふ……どうやら、失敗のようですね」


 吐息のような囁き。

 その声音には痛みも恐怖もなかった。


 「……ッ、貴様……!」


 ツヅラの爪を通して、手応えのない影が霧散していく。

 まるで最初から実体などなかったかのように。


 「ですが――こちらも、他に用ができましたので」


 フードの男は芝居がかった仕草で一礼し、仰々しく両手を広げる。

 その動きは最後まで舞台役者のようで、場違いなほど優雅だった。


 「今回は、これで失礼させていただきましょう」


 笑みを浮かべたまま、その姿はかき消えるように消滅した。

 残されたのは、砕け散った冥柩の檻の残滓と、獣の爪を振り下ろしたまま立ち尽くすツヅラだけ。

 ツヅラの爪がまだ乾ききらぬ黒い血を滴らせながらも、その足取りは迷いなく籠城郭へと向かっていた。

 そこに広がっていた光景は、まさに地獄絵図だった。

 石畳に横たわる負傷者たち。

 ラグナの呪縛により同胞を斬り伏せた獣人兵が、我に返った今になって血塗れの仲間の亡骸を前に頭を抱え、声にならない呻きを上げていた。

 怯えた民が壁際に寄り集まり、ただ震えて祈ることしかできない。

 呻き声、泣き声、嗚咽が交じり合い、籠城郭はまるで亡者の巣窟のような有様だった。

 ツヅラはその光景を目にし、細く金の瞳を眇めた。

 瞳に宿るのは憤怒か、それとも悲哀か。

 だが彼女の声音は揺るがなかった。


 「……うつむいとっても、死んだもんは帰ってこぉへん」


 その声は澄み切った鈴の音のようであり、場にいる全員の耳に突き刺さった。


 「せやけどな――」


 ツヅラは一歩踏み出し、血の染みた石畳に爪を立てた。

 その背筋は凛として揺るがず、獣人の兵たちにとってそれは罪を映す鏡のようでもあり、救いを与える柱のようでもあった。


 「行った過ちは取り返せへん。せやけど……今、ここでできる最善を尽くすことはできるはずや」


 頭を抱えてうずくまっていた兵の一人が顔を上げた。

 涙で濡れたその瞳に、ツヅラの金の瞳が射抜く。


 「お前ら、自分らが斬った仲間を、血に沈んだまま放っとくんか? 泣きながら後悔するんはその後や。今は救える命を救え。負傷者を運べ! 救護隊を呼んでこい!」


 鋭い檄に、兵たちは一瞬たじろいだ。

 だがその声は胸の奥に響き、かすかな熱を呼び覚ました。


 「それから……死んだ仲間を並べてやりぃ。置き去りにしたらあかん。最後くらい、仲間として見送ったらんかい」


 低く、しかし力強いその言葉に、兵たちはぐっと拳を握る。

 今しがたまで絶望に沈んでいた彼らの目に、光が戻り始めていた。


 「……はっ!」


 誰かの短い返事を皮切りに、獣人兵たちは即座に行動を開始した。

 負傷者を抱え、呻き声を上げる者の肩を支え、倒れた仲間を丁寧に並べていく。

 その動きはぎこちなくとも、必死であった。

 ツヅラはそんな彼らを静かに見据える。

 その背には血と絶望に染まった戦場を背負いながらも、人を導く強き者の姿があった。

 彼女の金の瞳は、なおも鋭く輝き続けていた。

 籠城郭の混乱を鎮めたツヅラは、振り返ることなく足を南へと向けた。

 彼女の歩みは早くもなく遅くもなく、だがその爪先は迷いなく地を叩き続ける。

 途中で駆け寄ってきた若い獣人兵に、ツヅラは鋭く問いかけた。


 「……今の戦況、逐一報告せぇ」


 兵は額に汗を浮かべ、荒い息のまま報告する。


 「東と西……どちらも黒の勇者の軍を押し返すことに成功しました! ですが……」


 短い言葉のあと、兵は口ごもる。

 ツヅラの金の瞳が射抜くように細められる。


 「続けぇや。報せは事実ごと伝えるんが務めやろ」


 「は、はいっ! 東では――ドルガ隊長と、リュシア殿が重傷……! 意識はなく、救護隊が必死に手当てをしています! 西では朧隊長とセレスティナ殿も……同じく意識不明で、今は治療を……!」


 ツヅラの足が一瞬だけ止まった。

 その瞳に一瞬、悔恨と憂いの影がよぎる。

 しかし、すぐに切り替えるように顎を上げ、声を鋭く放つ。


 「……ようやった。命を張って道を切り開いた。なら、今うちらがすべきは――その犠牲を無駄にせんことや」


 兵は目を見開き、強く頷いた。

 ツヅラはさらに問いかける。


 「ほな、残党は?」


 「……はい。東と西で退いた黒の勇者の兵が、南へと流れ……グラド殿の守る戦線と合流しました。南は今……押され始めています!」


 ツヅラは深く息を吐いた。

 その吐息は冷たく、しかし内に烈火を宿していた。


 「……よう分かった。すぐに伝令走らせ。東と西の残りの兵を南に集めぇ。生きとるもん全員や。立って動ける者は、もれなく南へ」


 「はっ!」


 兵が駆け出していくのを背で聞きながら、ツヅラはすでに歩を進めていた。

 血の匂いが濃くなる南の空気へと、彼女は一歩ごとに踏み込んでいく。


 「……うちも戦線に出る」


 その呟きは静かだったが、金の瞳に宿る光は、戦場を焼き尽くす炎のように鋭く輝いていた。

 ツヅラの長い髪が風にたなびき、南の戦場へと彼女の影が消えていった。

 南の戦線へ辿り着いたツヅラは、息を呑むような異変に気づいた。

 突如として空が黒雲に覆われ、昼であるはずの戦場は、まるで夜の帳を無理やり引き下ろされたかのように暗転する。


 「……これは」


 ツヅラの金の瞳が空を見上げた。黒雲の狭間から、幾筋もの稲妻が縦横に奔り、轟音が戦場を揺らす。

 その稲妻の発する禍々しい魔力を、ツヅラは敏感に感じ取っていた。


 ――黒雷招来陣アーク・ネメシス・サークル


 ミレイユが紡ぎ出した、規格外の大魔法。

 金の瞳を細め、彼女は低く、しかし確信に満ちた声で言葉を零す。


 「……バニッシュはん。あんたに託すで」


 その声には、敵の強大さを知りながらも、仲間を信じる凛とした意志が込められていた。


 南の前線では、老戦士グラドが巨槌を振るっていた。


 「くそったれめッ!」


 皺だらけの顔に汗と血をにじませ、老体に鞭を打ちながら、それでも彼は獣人兵たちの先頭で戦っている。

 振り下ろされた槌は地を割り、黒の勇者の兵を一撃で吹き飛ばす。だが、その数は留まることを知らない。

 押し寄せる波は少しずつ前線を削り、獣人兵たちの背を押し始めていた。

 その時だった。


 ――跪き。


 柔らかに、だが抗えぬ重圧を伴う声が、戦場に響き渡った。

 ツヅラのスキル――群律。

 刹那、黒の勇者の兵の前衛が、まるで見えない巨腕に押し潰されたかのように一斉に地へと伏した。

 甲冑が軋み、地面に叩きつけられる音が響く。抵抗する間もなく、その全てが地を這った。


 「な、なんじゃこりゃ……」


 グラドは一瞬呆けたように口を開いた。

 だがすぐに、背後から凛とした声が響く。


 「今や!」


 その声は、金の刃のように鋭く、兵たちの士気を奮い立たせた。

 獣人兵たちは一斉に鬨の声を上げ、倒れ伏した敵兵へと攻勢をかける。

 振り返ったグラドの視線の先には、戦場の混乱のただ中に立つツヅラの姿があった。

 彼女は扇で口元を隠し、金の瞳だけを鋭く光らせている。

 その立ち姿は、戦場の混沌を切り裂く統べる者のそれだった。


 「さあ……こっちも終わらすで」


 涼やかに告げるツヅラの声に、重苦しい戦場の空気が一変する。

 グラドは破顔し、血まみれの顔に笑みを浮かべた。


 「へっ……! あんたがいてくれたら百人力だ!」


 ツヅラは扇を軽く払って言った。


 「百人力ちゃう。千人力や。うちらで勝ち切るんや」


 その一言で、南の獣人兵たちの鬨の声は、轟雷にも負けぬほどに高く響き渡った。

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