1話:ディストピアの底で弓を引く者
BCGって、今はまだ発展途上の領域なのですが、きっと何年後かにはこんな世界が!という妄想を形にしてみました^^
西暦2040年。人類は「完全な仮想現実」を手に入れた。
脳波接続型のニューロ・リンク技術は極限まで発達し、人類の意識は五感ごと電子の海へと解放された。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、果ては味覚まで完璧に再現された仮想空間(VR)の中で、人々は新たな生を謳歌している。
――だが、それは「持てる者」だけの話だ。
資本主義の果てに訪れたのは、絶望的なまでの格差社会。富裕層はエアコンの効いた快適なカプセルの中で1日の大半を仮想空間で過ごし、VRゲームや仮想投資に時間を費やしながら、富を雪だるま式に増やしていく。
一方で、持たざる者たちが生きる場所――それはアジア、アフリカ、中南米、世界中の至る所に存在する「名もなき途上国の街々」だ。
途切れ途切れの電力、錆びついたトタン屋根の家々、泥水と排気ガスの匂い。先進国が排出するあらゆるゴミの集積場となり、安価な労働力として搾取されるためだけに存在する街。
そしてもう一つ、途上国に共通する最悪の共通点があった。
先進国の極秘研究所や医療企業が法規制の緩い途上国に持ち込み、用済みとなってそのまま打ち捨てられた「遺伝子改変生物の生き残り(生物学的廃棄物)」の横行だ。
ディストピアと化した、ありふれた貧困の風景。――そこに彼は生きてきた。
「……ふぅ」
スコールが去った直後の湿気は、まるで皮膚にねっとりと絡みつく生温かい塗料のようだ。
十六歳の少年、ダヴィは、トタン屋根の隙間から射し込む一筋の陽光の中で、一瞬だけ吐息を漏らした。手に握られているのは、家電のゴミ山から拾い集めた硬質な強化プラスチックの廃材と、粗末なワイヤーで作った手製の「自作弓」だ。眼前に広がるのは、泥とゴミに塗れた路地裏。普通の人間の目にはただの暗がりとゴミの山にしか見えない場所だが、彼には違う。
ーー静寂
いや、厳密には「世界のノイズ」を脳内でカットする作業。頭上でうなる壊れかけの自家発電機の低音。路地裏で骨を貪る野良犬の咀嚼音。遠くの幹線道路を走る旧式ガソリン車の排気音。それら無数の音の波から、ダヴィは特定の「波長」だけを研ぎ澄まされたフィルターで引き抜いていく。
(……来たな)
ターゲットは、路地裏の奥、崩れかけたコンクリート壁の陰。音の正体は、肉を裂くような不快な爪音と、濡れた皮膚が擦れ合う粘着質な足音。
『貧困街の毒蛇』。
先進国の製薬会社がこの街の現地法人に密かに持ち込み、事故を装って漏洩・不法棄棄された変異毒蛇だ。体長2メートルを超える個体もおり、噛まれれば一分ほどで呼吸が止まる。世界中の途上国で猛威を振るう「打ち捨てられた害獣」の代表格だ。
(皮は闇市で防水シート代わりに売れる。肉は血抜きさえしっかりやれば、今夜の弟たちの貴重なタンパク源だ……)
ダヴィは足音を一切立てず、猫のように滑らかな動作で弓を引き絞る。大蛇が鎌首をもたげ、舌を高速で出入りさせる――シュー、という微小な空気の摩擦音。普通の人間なら見落とすその一瞬の「隙(予兆)」を、ダヴィの聴覚はミリ単位の精度でキャッチしていた。
(――いま)
弦を離す。
シャッ、と空気を切り裂く短い破裂音。
放たれた手作りの矢は、完璧な放物線を描き、大蛇の「眼球」の隙間――骨が空洞になっている唯一の弱点を的確に貫いた。
「シャァアッ!?」
即死。
暴れる暇すら与えず、巨蛇は泥の中に崩れ落ち、沈黙した。
「よし……狙い通りだ」
ダヴィは無表情のまま弓を収め、獲物の元へ駆け寄ると、慣れた手つきでナイフを刺し込んで血抜きを始めた。
どの国のどの途上国であれ、生き残るためのルールは変わらない。「殺される前に殺す」。そして「使えるものは骨の髄まで利用する」。
富裕層たちがVR空間で豪華なデジタルアバターを着飾り、安全な空間で人生を謳歌している中、ダヴィは今日も泥に塗れ、明日を生きるための「生の狩り」をこなしていた。
――彼が、あの「白い悪魔」のような女と出会うまでは。
湿気で不快指数が100%に達しそうなこの路地裏を歩くのは、正気の沙汰ではない。
「葵様、やはりお引き返しになりませんか。この国も例に漏れず、警察組織は買収され、無法地帯と同義です。先進国から捨てられた危険生物も徘徊しており、貴女のようなお立場の方がおいでになる場所ではありません」
背後から追従する私設護衛――元・特殊部隊の大型男性・ジェイドが、警戒を露わにしながら囁く。
「ダメよ、ジェイド。ここにいるはずなのよ。私がずっと探していた『原石』は。」
いかにも富裕層という出立ちの彼女は、最高級シルクのブラウスの袖をわずかに払いながら、泥跳ねを避けて歩を進めた。
彼女が、この地獄のような途上国の街を渡り歩いているのには理由がある。
BitCoinをはじめとした暗号資産が登場して半世紀。『Play to Earn(遊んで稼ぐ)』という理念を旗印に開発され、苦渋を舐めてきたBCGゲームたちがVR世界によって花開いた。今や世界の基軸通貨の大半が暗号資産の中、富裕層はVRゲームの中で『Play to Earn(遊んで稼ぐ)』によって得た暗号資産で生活を賄っている。彼女、神楽坂 葵は、そんな現状を破壊し、貧富の差をなくすために人生を捧げている求道者だ。
もう少し、現状について説明を重ねよう。
2040年現在、世界を席巻する超大型VRMMO『AETHERIA』。
このゲーム内での経済活動は、現実の暗号資産と完全に連動している。だが、実態は酷いものだった。欧米の巨大投資ファンドや廃課金ギルドがゲーム内の重要リソースや高額NFTを独占し、途上国のプレイヤーたちを「格安の単純労働者」として搾取している。先進国が現実世界でゴミと危険生物を途上国に投げ捨て、電子空間でまで持たざる者を踏みにじる構造。
(そんなの、美しくないわ)
彼女の目的は、寄付やボランティアなんてぬるい支援ではない。アフリカでも、中南米でも、このアジアの街でも変わらない。途上国の子供たちに最新のVRギアと通信環境を配り、自分たちの腕で正当な大金を稼ぎ出させる仕組み(エコシステム)を作ること。その仕組みを広げるためには『ヒーロー』が必要だった。
「支援される可哀想な子供」ではなく、圧倒的な強さと理不尽なまでのプレイスキルで、ゲーム世界の富裕層たちをなぎ倒し、大金をかっさらってくる「途上国出身の絶対的ヒーロー」。
世界中の同じ境遇の子供たちが「自分もあんな風に自分の足で立ち、世界を相手に戦いたい」と本気で思えるような、希望の象徴。プロゲーマー? 廃課金勢? 違う。そんなぬるま湯で育った人間じゃダメ。欲しいのは、システムのアシストや甘えに頼らず、「生きるために五感を研ぎ澄ませてきた本物の野性」だ。
「……情報屋のレポート通りなら、この路地の奥にいるはずだけど」
私たちが崩れかけたコンクリートの角を曲がろうとした、その時だった。
「――っ!? 葵様、伏せて!!」
ジェイドが叫び、葵を背後へ庇おうとした。
だが、遅い。
ガシャアアンッ!!
上空の壊れた鉄骨キャットウォークから、大量の錆びた金属片と共に「何か」が落っこちてきた。
「キシャアアアアッ!!」
それは、体長2メートルを優に超える怪異――途上国の廃棄場に棄てられ野生化した遺伝子改変実験体『大狂犬』だった。
「くっ、おのれ――!」
ジェイドが腰の電磁警棒に手を伸ばすが、狭い路地裏、かつ不意打ちの至近距離。大狂犬の鋭い爪が、ジェイドの腕を弾き飛ばす。
「しまっ――!」
体制を崩したジェイドを無視し、赤く血走った目をした大狂犬が、ターゲットを葵に変えた。
開かれる、鋭い牙と粘液が滴る大口。死の匂い。回避不可能。葵の脳が、死を覚悟してフリーズする。
(こんなところで……)
刹那。
――ビュッ!!
鼓膜を突き刺すような、澄んだ「高音の風切り音」が路地に響いた。
ドスッ!
「……ギャンッ!?」
葵の目の前、わずか数センチの距離で、大狂犬が宙でピタリと動きを止めた。
犬の眉間――眼球と骨のわずかな「隙間」に、手作りの粗末なプラスチック矢が、羽の根元まで深く深く突き刺さっていた。脳幹を直接破壊された巨体が、泥水の中にバタリと倒れ込む。
「……え?」
呆然とする私とジェイドの視線の先。崩れたトタン屋根の上に、一人の少年が立っていた。ボロボロのTシャツに、手垢で汚れた手作りの弓。だが、その瞳は――私が見てきたどんな洗練されたプロゲーマーよりも、深く、鋭く、研ぎ澄まされた「本物の狩人」の光を宿していた。
少年はトタン屋根から軽やかに飛び降りると、無造作に倒れた犬の死体から矢を引き抜いた。
「おい、アンタたち。余計な声を出すな。音で次の獲物が寄ってくる」
冷淡で、無駄のない声。危険生物の襲撃という死線すら、彼にとっては「いつもの日常作業」でしかないと言いたげな立ち振る舞い。
(……見つけた)
葵の胸が、激しく跳ね上がった。暗音を見抜き、数ミリの隙間を一射で射抜く圧倒的な感覚。システムアシストなど一切存在しないこの現実世界で、直感だけで死を回避してみせた『野生の天才』。葵は泥で汚れた服を気にも留めず、青年に向かって一歩踏み出した。
「素晴らしいわ……本当に、素晴らしい。」
「……あ?」
不審者を見る目で葵を睨みつける少年に向かって、最高の笑みを浮かべながら銀色に輝く最新型のVRギアを差し出した。
「初めまして。私の名前は神楽坂 葵。……ねえ、君。その素晴らしい才能を使って、私と一緒に……世界を救うヒーローにならないかしら?」
これが、後にVR空間『AETHERIA』の全プレイヤーを震撼させ、世界中の途上国の子どもたちの未来を塗り替えることになる伝説のスナイパー――『ダヴィ』と私の、最初の出会いだった。




