2話 故郷の焔
「じゃあ、どうやってロシア軍を倒すか考えましょう」
村長の言葉を皮切りに、教会にいる村人たちは騒ぎ始めた。
並べられている長椅子を囲み、ああでもない、こうでもないと意見をぶつけ合う。
エリアスの母も、クレールも混ざっていた。
「森に火を放つべきだ」
「仕掛けるのは夜だ。そうじゃなきゃ勝ち目はねぇ」
「帝国軍が戻ってくるまで耐えれれば…」
どれも現実味があるようで、どこか現実味がなかった。
エリアスは扉の前で様子を眺めながら、ため息をついた。
敵が何人いるのかさえ分からない。
それなのに、村人たちは「どうやって倒すか」を話している。
だが、それを笑うこともできなかった。
エリアスは、螺旋階段を静かに登った。
教会の鐘楼、そのさらに上にある小さな展望台には、アーデルとファルケがいた。
二人がいる所には、古びた木製の望遠鏡が、石造りの台座に固定されている。
「これは使えるのかな?」
アーデルは飄々としている。
エリアスは望遠鏡の覗き穴に目を当て、隣村を見つめた。
家々が並び、道が伸び、畑が広がり、ロシアの旗がある。
だが、妙だった。
「……静かすぎないか」
エリアスが呟く。
ファルケもその横から望遠鏡を覗く。
「確かに。村人はおろか、ロシア兵も見えん」
「避難したとか?」
「それなら、それでいいんだが……」
ファルケの言葉が途中で止まった。
「……待て」
「何ですか?」
「道の端を見てください」
エリアスがもう一度、望遠鏡を覗く。
道の脇。
何か黒いものが倒れている。
最初は荷物かと思った。
だが、倍率を調整すると、人間の身体だと分かった。
「は……」
エリアスは言葉を失った。
村人だった。
服装も、この地方の農民が身につけるものと同じだ。
一人。
そして、その少し先にも、もう一人。
さらにその奥にも――。
「……嘘だろ」
エリアスは望遠鏡から顔を離した。
手が震えている。
「どうした?」
アーデルが、相変わらず気の抜けた声で尋ねる。
「人が……倒れてます」
「何人?」
「待って……三人……いや、もっといる」
ファルケが再び望遠鏡を覗いた。
しばらく黙っていたが、やがて低い声を漏らした。
「……六人」
エリアスが振り向く。
「いや……」
ファルケは望遠鏡を動かした。
「向こうの家の裏に、さらに二人」
沈黙が落ちた。
風が鐘楼を抜けていく。
エリアスは再び望遠鏡を覗いた。
今まで気づかなかったものが、次々に目に入ってくる。
倒れた荷車。
開け放たれた家の扉。
道に散らばった農具。
そして、道端に横たわる人影。
「……何があったんだ」
声が震える。
その時だった。
「待て」
アーデルが言った。
珍しく、その声には軽さがなかった。
「もう少し右だ」
エリアスが言われた通りに望遠鏡を動かす。
村の外れ。
何かが動いた。
一頭。
二頭。
馬だった。
その上に、人が乗っている。
銃を背負い、長い外套を身につけた兵士たち。
旗が翻る。
白、青、赤。
「……ロシア軍」
ファルケの声が掠れた。
エリアスは息を呑んだ。
ロシア兵が、隣村を歩いている。
しかも歩兵ではない。
複数の騎兵が、村の中をゆっくりと進んでいる。
エリアスの顔から血の気が引いた。
「騎兵……?」
それだけではない。
騎兵たちは隊列を整えるでもなく、好き勝手に村の中を移動している。
ある者は馬から降り、家の中へ入る。
別の者は道路の真ん中で談笑している。
まるで、戦場にいる兵士には見えなかった。
「やっぱり、来てるんだ……」
エリアスは望遠鏡から目を離した。
そのまま踵を返す。
「待て、どこに行く」
ファルケが言った。
「皆に知らせないと…」
「しかし…」
「このままじゃ、皆殺しだ!」
エリアスはファルケには目もくれずに駆け出した。
そのまま螺旋階段を急いで降りる。
(ロシア兵がずっと隣村に居座っていたのは、村を最大限楽しむため)
(物を略奪し、村人を襲い、そして最後に全員殺す気だ…)
エリアスは唇を嚙んだ。
村人たちに、隣村で何が起きているのかを伝えなくては。
一方、エリアスがいなくなった展望台では。
アーデルは望遠鏡をとり、ロシア騎兵を追っている。
「閣下、とりあえずなにか策をーー」
「しっ」
その一言だけで、アーデルはファルケを制した。
しばらく経って、ようやく望遠鏡から目を離す。
その顔には、先ほどまでの気の抜けた表情がなかった。
「……なるほどな」
ポツリと呟く。
「は?」
「これは、思っていたより面白い」
アーデルは手摺壁に体を預け、夕陽に照らされた家々を見やる。
風が頬をなで、黒髪を揺らす。
その向こうで、今もロシアの騎兵が動いていた。
ーーー
茜色の空が深い群青色へと染まり、影が村を包み込むにつれて、夜の静寂へと移り変わる。
教会には、異質な空気が漂っていた。
机の上には、村の簡素な地図が広げられている。
そして東側にある隣村。
その位置には、赤い印がつけられていた。
「夜のうちに行く」
村人の一人が言った。
「敵はまだ村に入っていない。今なら向こうも油断しているはずだ」
「何人いるか分からんぞ」
「だからこそだ。朝まで待てば、もっと増える」
別の男が頷く。
村人たちは怯えていた。
それでも何かしなければならないという気持ちだけは強かった。
「待ってください」
扉を勢いよく開き、エリアスが講堂に躍り出る。
村人たちの視線が集まる。
「夜襲なんて無理です」
「軍人さんがそんなこと言ってどうする」
「軍人じゃありません。士官候補生です」
エリアスは続ける。
「敵の数が分からない。どこにいるかも分からない。こちらはまともな訓練を受けた部隊でもない。夜襲したところで、皆殺される」
最後の言葉だけ、教会に静かに降り下りた。
地形を見て、敵の進路を推測する。
部隊を配置する。
退路を確保する。
だが、今ここで決められている作戦には、何よりも重要なものが欠けていた。
敵の正確な兵力と装備。
「じゃあどうする、候補生さんよ」
誰かが言った。
「軍人になるんだろ?だったら部隊連れてきてくれよ。村を守るのが、軍隊の仕事だろうが」
「それは……」
「何もしないで、村が踏まれるのを見ていろってか?」
次は、別の誰かによって発せられた。
エリアスは言葉を失った。
それを言われると、何も返せない。
何もしなければロシア軍は村へ来る。
その時、どうなる。
エリアスは答えを知っていた。
隣村の風景が、わずかに脳裏に霞む。
だが逃げようとは言えなかった。
全員で逃げたとしても、今更逃げ切れる保証がないからだ。
「儂は行くぞ」
年配の村人が立ち上がった。
「家族だけでも逃がせばいい」
「俺もだ」
「だったら俺も」
一人一人、手が上がっていく。
エリアスは、その光景を見ながら胸の奥が重くなるのを感じていた。
彼らは勇敢なのだろうか。
それとも、恐怖で正常な判断ができなくなっているのだろうか。
分からなかった。
ただ一つ分かることがある。
自分も、怖い。
エリアスは母の方を見る。
母は黙って話を聞いていた。
そして、隣にはクレールもいた。
「……母さん」
エリアスが呼ぶ。
「何?」
「行かないでくれ」
母は少しだけ目を丸くした。
「どうして?」
「夜襲なんて無茶だ。敵は軍隊だぞ」
「分かってる」
「だったら――」
「エリアス」
母は穏やかに遮った。
「あなたは逃げて」
エリアスは黙った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
「やっぱり、母さんも逃げよう」
「私は残るわ」
「そんなに村が大事なのか?」
「それもあるけど、一番はあなたを逃がすため」
「意味分かんないよ」
エリアスの声が大きくなる。
「逃げるなら一緒に逃げればいいだろ!」
「それはできない」
「どうして!」
母は答えなかった。
その代わり、クレールが口を開いた。
「エリアス」
「何だよ」
「ここを誰かが守らないと」
「守れないだろ!」
思わず叫んだ。
教会が静まり返った。
エリアスは自分の声に驚いた。
「本当に無理なんだ。君たちじゃ勝てない。騎兵だっているんだ」
クレールは静かに彼を見ていたが、不意に少しだけ笑った。
「勝たなくてもいいよ。時間を稼げればいい。」
その言葉に、エリアスは何も言えなくなった。
自分が逃げるための時間を稼ぐ。
他の誰かが死ぬことで作る時間。
母もこちらを見ている。
その目は、昨日の夜と同じで穏やかだった。
母も自分を逃がすために、ここに残るつもりなのだ。
「……嘘だろ」
小さく呟く。
「そんな顔するんじゃないの」
「できるわけないだろ」
「あなたはまだ若いもの」
「母さんだって若いだろ」
「そんなことないわよ」
場違いなやり取りに、何人かの村人が苦笑した。
だがエリアスには笑えなかった。
目の前にあるものを理解した瞬間、頭の中が真っ白になっていた。
自分一人で逃げれば、生き残れる。
ドイツ軍の後を追い、ベルリンの士官学校に戻る。
そこで正式に軍人になればいい。
そして、ある考えが頭の中を駆け巡った。
「母さん」
「なに?」
「決めたよ。僕は逃げる。そして……」
母とクレールは顔を見合わせた。
「生き残って、いつかこの村を取り戻す」
そう言って、エリアスははにかんで見せた。
そして、ゆっくりと扉へ向かった。
「エリアス」
扉に手をかけた時、母の声がした。
振り返らない。
「……何?」
「気をつけてね」
その一言が、あまりにも普通だった。
まるで明日も帰ってくるかのように。
エリアスは唇を噛んだ。眼が潤んだのを自覚した。
扉を開け、廊下を歩く。
外へ出、村の暗い道を歩く。
一歩進むごとに、胸が痛くなった。
これでいい。 これでいいんだ。
自分は軍人じゃない。
十八歳だ。
母を助ける力なんてない。
そう言い聞かせる。
それでも足取りは重い。
村の出口まで来た。
エリアスは一度だけ振り返った。
暗闇の中に、自分の家がある。
そこに母がいる。
クレールもいる。
村人たちもいる。
そして、その向こうにはロシア軍がいる。
エリアスは目を閉じた。
その瞬間、背後から声がした。
「どこへ行く?」
振り返ると、アーデルの顔が闇から現れた。
「……逃げます」
「そうか」
「止めるんじゃないんですか」
「いや」
アーデルは少しだけ首を傾けた。
「逃げたいなら逃げればいい」
それから、エリアスの横を通り過ぎる。
村の外ではなく、村の中へ。
「ただし」
アーデルは振り返った。
「君は一人では逃げない」
「はっ?」
エリアスは意味が分からなかった。
アーデルはそれ以上説明せず、ただ村の奥を見る。
その目だけが、先ほどまでとは違っていた。
この男は、もしかすると――
自分が思っていたほど何も考えていないわけではないのかもしれない。
(大将、だもんな……)
だが、その答えを知る時間はなかった。
東の闇の向こうから、地鳴りが聞こえてきたのだ。
無数の音が重なり始める。
馬蹄だった。
そして、村が騒がしくなった。
村人たちが一斉に教会を出たのだ。
夜襲の準備をしていた男たちが、武器を握り列を作る。
アーデルは気にすることもなく、そのまま歩き続けた。
「ちょ、アーデル大将?」
エリアスは息を呑んだ。
「どこへ行くんですか?」
返答はない。
エリアスは、居ても立っても居られなくなった。
戦が始まる。軍の要人は一人で戦場をうろつく。
このまま放っておいていいのか。
エリアスは駆け出した。
そしてアーデルの腕をつかむ。
「危険です!死ぬつもりですか!?」
その瞬間、エリアスの目に映ったのは見知った村人たちだった。
男たちは、それぞれ銃や農具を握りしめている。錆びついた猟銃を抱える者もいれば、古い軍用銃を握る者もいた。
そして東の街道の先から、最初の人影が現れた。
馬に乗っている。
その後ろにも、さらにその後ろにも馬。
暗闇の中から、次々と騎兵が姿を現していく。
エリアスは唖然とした。
(こんなに早く…)
ロシア兵はすぐそこまで迫ってきている。
村人たちの間に、震えが走った。
「今だ」
誰かが叫び、呼応するように男たちが一斉に走り出した。
「待て!」
アーデルの隣で、エリアスが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
数発の銃声が轟いた。
闇の中で閃光が走り、人が倒れていく。
それでも村人たちは前へ進んだ。
「撃て!」
「進め!」
「村を守れ!」
整った陣形など存在しなかった。
人間が、それぞれの恐怖を振り払うように前へ走っている。
エリアスは歯を食いしばった。
無茶だ。
こんなものは戦闘ではない。
母もいる。
クレールもいる。
村人たちもいる。
それでも、止めることができない。
エリアスは一歩踏み出したが、隣にいたアーデルが、突然エリアスの肩を掴んだ。
「なんです!?」
「行くな」
「でも!」
「まだだ」
アーデルの声は静かだった。
「……何を待ってるんですか?」
「見れば分かる」
エリアスは再び戦場を見た。
村人たちがロシア騎兵へ向かっていく。
村人らが囲んで数人の騎兵を突き落とした。
村人たちは勢いづき、次々と後続に銃撃を浴びせる。
ロシア騎兵が一斉に方向を変えた。
馬を反転させ、銃撃をかわすように退いていく。
そして左右へ散り、中央が大きく開いた。
「……あれは、誘いだ」
エリアスは呟いたが、村人たちの勢いは前へ進む。
その先には、敵の後続部隊がいた。
しかも、こちらへ向かってくる騎兵の数が、さっきまでとは比べものにならない。
「戻れ!」
だが、前へ出ていた村人たちには届かない。
ロシア騎兵が瞬く間に殺到し、村人の列が崩れる。
叫び声が上がり、銃を捨てて逃げる者で道は溢れかえった。
エリアスを通り過ぎ、逃げ出していく。
転んで起き上がれない者、仲間を引きずろうとする者もいる。
一瞬だった。さっきまで勇ましく叫んでいた人間たちが、今はただ生き延びようとしている。
エリアスは思わず後ずさった。
「うわぁ!」
眼の前で、村人が背後から騎兵に斬られた。。
鮮やかな赤や青の外套を羽織った、ロシア軍の指揮官だった。
馬上から戦場を見渡し、笑っている。
「……あいつ」
指揮官が、こちらを見た。
目が合い、エリアスの身体が強張る。
男は笑い、馬をこちらへ向ける。
「オラァ!」
男が叫んだ。
その声には、異様な昂揚があった。
逃げる村人を追いかける。
倒れた者を見下ろす。
そして、また次の獲物を探す。
まるで戦場そのものを楽しんでいるようだった。
エリアスの背筋が凍る。
「エリアス!」
脇から、母の声がした。
指揮官に並走して、母が走ってくる。
「逃げて!」
「母さん!」
エリアスは動けなかった。
足が震えている。
何もできない。
母が自分の前へ出る。
指揮官が剣を振り上げ、エリアスは目を見開いた。
「母さん――!」
母と確かに眼が合った。
その顔には、不思議なほど穏やかな表情が浮かんでいた。
母が、膝を落とす。
「エリアス……」
母の声が、震えていた。
「約束……」
母が地面に突っ伏したと、ようやく分かった。
体の震えが、なぜか止まった。
指揮官の口元が歪み、大声で嗤った。
不愉快な嗤いだけが、エリアスの脳に染み込む。
足音が、微かに聞こえたような気がする。
「そこまでだ」
次は、綺麗な男の声。
アーデルが腰に手をかけ、指揮官の目の前に立っている。
「こうなることは、予想できていたよ」
「あぁ?」
指揮官がアーデルを睨みつける。
「失礼ながら、望遠鏡であなた方の姿を観察させていただいたよ」
アーデルはまったく怯まなかった。
「君たちは村に一日滞在し、思う存分満喫していたね。家を略奪し、女を犯し、男をさらし、子供を殺した」
彼は淡々と述べる。
「でも、軍規が厳しいロシアの正規兵はそんなことはしない。つまり君たちはロシアの正規軍ではない。じゃあ一体誰なのか」
アーデルはゆっくりを指揮官の周りを歩く。
「足の速い騎馬隊。それで最前線を押し付けられる。そう、答えはコサックの騎兵隊だ」
アーデルは奥を見やる。
「でも、村でのんびりしている隊の統制が取れてるわけがない。案の定、村人を追いかけ簡単に陣形は乱れた」
「どういうことだ…」
エリアスは黙って聞いていた。
頭の中で、さっきまでの戦場が繋がっていく。
村人たちが突撃した。
ロシア騎兵が追った。
陣形が乱れた。
そして今、指揮官まで前へ出てきた。
(まさか、今この瞬間を――)
アーデルは待っていたのか。
「君たちは実に私の思い描いた通りに動いてくれたよ。陣形も乱れ、しかも相手は弱い村人。勇猛なコサックの指揮官が出てこないはずがない」
異国語の長話に飽きたのか、指揮官が馬を引き、アーデルに突進した。
指揮官の剣がアーデルの首筋に達しようとしている。それなのに、アーデルの口角が上がった。
「君はすでに、負けているよ」
次の瞬間、銃声が響いた。
乾いた、一発の音だった。
ロシア軍指揮官の身体が大きく揺れる。
剣が地面へ落ち、馬が暴れた。
男はそのまま馬上から崩れ落ちる。
エリアスには、何が起きたのか分からなかった。
ただ、すぐ横にいたアーデルが銃を構えていた。
「彼らは追いすぎた。指揮官も、あまりに簡単に前へ出た」
アーデルが言葉を継ぐ。
「最初から、村人を……利用した?」
エリアスの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「じゃなきゃ勝てない」
あまりにも簡単に言われた。
エリアスは唇を震わせる。
「人を使い捨てにしたんですか」
「違う」
アーデルは淡々と答え、踵を返した。
「逃げるぞ」
背後から、一人の男が二頭の馬のたづなを引いて歩いてくる。
「閣下!」
ファルケだった。
「ご無事ですか?」
「全部上手くいったよ」
エリアスはアーデルに駆け寄ろうとした。
だが、足が動かない。
目の前の現実を受け入れたくなかった。
アーデルがエリアスの身体を掴んだ。
「エリアス」
強引に引き寄せる。
「離してください。母さんを……置いていけない」
「彼女の意思を無駄にする気か?」
エリアスは必死に抵抗した。
「でも!」
「乗れ」
アーデルが馬へ飛び乗る。
エリアスを無理やり引き上げ、そのまま自分の前へ抱える。
「ファルケ!」
「はい!」
ファルケもすぐに馬へ乗った。
「行きますよ!」
二頭の馬が一斉に駆け出す。
エリアスは振り返る。
ブリュンハルトの村が遠ざかっていく。
そして――母も。
「母さん……」
声が震えた。
エリアスはアーデルの腕を振りほどこうとする。
「離してください!」
「暴れるな」
「戻って!」
「戻れば死ぬ」
「それでも!」
アーデルは何も答えなかった。
馬を走らせ、ファルケもその横についてくる。
母を置いてきた。
全部、あの村に残してきた。
胸の奥が締めつけられる。
自分は逃げた。
結局、逃げた。
アーデルの腕の中に捕まったまま、エリアスは何も言えなかった。
やがてアーデルが、前を向いたまま呟く。
「士官候補生」
「……何ですか」
「覚えておけ」
「何を」
「戦場では、勇気のある奴から死ぬとは限らない」
風がエリアスの頬を打った。
「一番危ないのは、自分が何をしているのか分からない奴だ」
エリアスは答えなかった。
ただ、遠ざかっていく故郷を見つめ続けた。
その日。
十八歳の士官候補生エリアス・ヴァルクは、初めて戦場を知った。
そして同時に、
戦争とは、敵を倒すことだけではない。
誰かを救うために、誰かを置き去りにしなければならないことすらある。
その残酷な現実を、嫌というほど思い知らされた。
【歴史断片】
ドイツ帝国の東方拡張と軍備増強に対し、ロシア帝国は国境地帯への兵力集中を開始。フランス・オランダもドイツへの警戒を強め、欧州諸国の対立は決定的となった。




