1話 ブリュンハルト村
「紅の趣」と並行して進めて参ります。
よろしくお願いします
――歴史とは、一本の道なのだろうか。
暗闇の中で、誰かがそう尋ねた。
そこには何もない。
空も、大地も、時間さえも。
ただ、声だけがあった。
「君たちは、自分たちの世界しか知らない。だから、歴史は一つしかないと思っている」
暗闇に小さな光が生まれる。
一本の線が、枝分かれしていく。
同じ大地から違う国が生まれ、同じ戦争から違う勝者が生まれる。
「では、もし――大航海時代が五百年遅れていたら?」
光が弾けた。
「もし、近代国家への移行が進まず、王朝と帝国が二十一世紀まで生き残っていたら?」
一つの世界が、こちらへ近づいてくる。
「もし、その世界でハプスブルク家がドイツを統一していたら?」
最後の言葉だけが、暗闇に残った。
「――その世界で、人は何を求める?」
光が消える。
そして、歴史は始まる。
ーーー
二〇七〇年。
大航海時代が五百年遅れた世界では、いまだ王朝と帝国が世界を支配していた。
ドイツでは、ハプスブルクの君主が二〇三九年に国家を統一。
その勢いのまま軍備を拡張し、海外へ進出した。
だが、その膨張は周囲の列強との対立を生んだ。
西にはフランスとオランダ。
海にはイギリス。
南にはスペイン。
そして東には、巨大な陸軍を擁するロシア帝国。
やがて欧州を覆った緊張は、一つの戦争へと変わった。
その年、二〇七〇年。
最初に戦争の足音を聞いたのは、帝都でも軍司令部でもなかった。
シュレージェン地方、ブリュンハルト村。
山と森に囲まれた、どこにでもある小さな農村だった。
村の中央には教会が一つ。
そこから少し離れた場所には酒場があり、夕方になれば農民たちが仕事を終えて集まる。
帝都ベルリンから遠く離れたこの村で、帝国の運命を左右するような政治が行われることはない。
新聞に載る戦争や外交の話も、村人たちにとっては遠い世界の出来事だった。
ところが春から、村では一つの噂が繰り返し囁かれるようになっていた。
「ロシア軍が東部国境へ集結している」
「いや、侵攻準備じゃないか?」
「嘘つけ。すでに国境を越えたらしいぞ」
噂は日に日に形を変えながら村を駆け巡った。
誰も確かなことは知らない。
だからこそ、誰も本気にはしなかった。
夜も、酒場には明かりが灯り、村人たちは酒を飲みながら声を上げて笑っている。
外は静かだった。春の夜風が黒髪を撫で、木々の葉を揺らしている。
エリアス・ヴァルクは、静かな夜の中で、村の外れに立っていた。
十八歳。 帝国陸軍士官学校に通う士官候補生。
休暇を利用して故郷へ戻ってきたばかりだった。
だが、
「どうしよう、早く逃げなきゃ・・・・・・」
青年は、汗だくで震えていた。
最初に聞こえたのは、馬の蹄だった。
暗闇の向こうから、次々と人影が現れる。
馬に乗った兵士。
荷馬車。
砲兵。
そして、その後ろから姿を現したのは、巨大な鉄製馬車だった。
二頭の馬と車輪に引かれた鉄製の箱に、数人の兵士が乗っている。
ドイツ帝国が誇る機動戦力である。
その鉄製馬車が今、猛烈な勢いで西へ向かっている。
士官候補生であるエリアスは、その光景を見た瞬間に理解した。
前進ではない。
後退している。
しかも整然とした撤退ではなかった。
兵士たちの顔には余裕がない。
馬は汗で濡れ、何頭かは足を引きずっている。
その姿は、エリアスが軍学校で聞いていた「神聖たるドイツ魂の精鋭」とはかけ離れていた。
さらにその後ろから、無数のドイツ兵が続いていた。
一つの部隊が通り過ぎる。
また一つ。
誰も村人に説明しない。
誰も立ち止まらない。
ただ、西へ。
エリアスはその光景を見つめたまま動けなかった。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
ーー帝国軍が逃げている
「……そんな、嘘だろ」
声が漏れた。
誰に向けた言葉でもなかった。
エリアスは村の東側を見る。
そして、西を見やった。
「よし、僕も逃げるぞ…」
エリアスが地面を蹴った、そのとき。
「エリアス?」
エリアスはビクッとした。
声のほうを振り返ると、そこにはエリアスの母が立っていた。
「母さん…?」
彼女はエリアスの顔を見るなり、優しく微笑んだ。
「こんなところで、どうしたの?」
そう言い、彼女はきれいな金色の髪をくるくると丸めた。
「いやぁ、その…」
エリアスは微笑み返したが、それ以上言えなかった。
ロシア軍に怯え、村から逃げようとした。
士官候補生ともあろう者が、果たしてそんなことを言えるだろうか。
「エリアス」
「…なに?」
母の声が低くなった。目が据わっていることに、エリアスは微かな疑問を抱いた。
「……ここから逃げなさい」
言われて、エリアスは思わず目を見開いた。
「なんで?」
「ドイツ兵が西へ逃げてる」
「母さんも、知ってたのか?」
「さっき見たわ」
母の声は、不思議なほど落ち着いていた。
エリアスはその落ち着きが逆に怖かった。
「母さん…」
口に出してみる。
「一緒に軍学校に戻れば、帝国軍が受け入れてくれる。安全な場所まで行けば……」
そこまで言って、自分でも嫌になった。
自分達だけ助かろうとしている。
それは分かっていた。
でも怖かった。
(だって、まだ十八歳じゃないか)
士官候補生とはいえ、戦場に立ったことは一度もない。
死ぬのが怖い。
当たり前のことだった。
「……逃げるの?」
母が静かに聞いた。
「うん」
「そう」
母は少しだけ笑った。
その笑顔が、なぜかエリアスには苦しかった。
「なら、一人で逃げなさい」
「え?」
「あなたは軍人になるのでしょう?」
「候補生だよ」
「同じでしょう」
「違うって」
思わず言い返す。
「母さんも一緒に…」
母は再び、少し笑う。遠くを見つめるような、全てを見抜くような、儚い眼だった。
「あなたが生まれた時も、この村だった」
母が言った。
「あなたが熱を出した時もここだった。初めて歩いた時も、転んで泣いた時も、ここだった」
「……」
「だから、たぶん私はここを離れられないのよ」
「……何それ」
いつもの母だった。
それなのに、エリアスにはその言葉が妙に引っかかった。
「分かったよ」
エリアスは遠くを見た。
「分かった、分かった。僕は逃げるよ。だから」
少しずつ、歩き始める。
「死んだりしちゃだめーー」
エリアスが言い終わる、背後から声が聞こえた。
「エリアス!」
クレールだった。肩にぎりぎり触れる程度の、無造作な黒髪。
幼い頃から村で暮らしてきた、エリアスの幼馴染。
彼女は駆け寄るなり、エリアスの顔を見る。
「あなたも逃げるの?」
彼女は遠くに見える敗残兵の列を指さした。
「……そのつもりだ」
「そう」
クレールも、母と同じように静かに答えた。
エリアスは嫌な予感がした。
クレールもか、と。
「二人とも、その反応やめてくれない?」
「何が?」
「なんか……俺が逃げるのを責めてるみたいだ」
「責めてないわよ」
クレールは少し考えるように視線を伏せた。
そして、
「だって、私たちはここに残るから」
と言った。
「……クレール。お前もか?」
エリアスの頭が止まる。
「ロシア軍が来るんだぞ」
「知ってる」
「軍隊ですら逃げてるんだぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで……」
クレールは答えなかった。
母が代わりに口を開く。
「あなたは逃げなさい」
エリアスは母を見る。
「私たちは大丈夫よ」
その言葉が、ひどく嘘っぽく聞こえた。
大丈夫なわけがない。
軍隊が逃げている。
それなのに、この村が無事で済むはずがない。
「……僕も残る」
「逃げるんじゃなかったの?」
「気が変わった」
「さっきまで逃げるって言ってたじゃない」
「僕だって、怖いよ。死にたくない」
一度、言葉を切る。
「でも、二人を置いて逃げたら、たぶん……ずっと後悔する」
エリアスは拳を握った。
「だから残る。怖いけど」
母とクレールが顔を見合わせる。
そして、ほんの少しだけ笑う。
エリアスはその笑顔を見て、さらに腹が立った。
自分だけが怯えているような気がした。
だが本当は違った。
二人とも怖いのだ。
怖いのに、ここに残ろうとしている。
その事実だけが、エリアスの逃げたいという気持ちを少しずつ削っていった。
遠くでは、まだ軍馬の蹄が鳴っていた。
神聖不可侵のドイツ帝国軍は西へ逃げている。
そして東から、何かが近づいているのだろう。
いつもなら暗いだけの東の空を見つめながら、エリアスは初めて、自分が逃げる先を想像した。
そして同時に、
自分だけ生き残ることも想像してしまった。
ーーー
エリアスは酒場に行った。
扉を開けると、客は一人もいなかった。
カウンターでバーテンダーが黙ってコップを拭いている。
エリアスは窓際の席に適当に腰掛ける。
頬づえを突きながら 窓の外へ目を向けた。
暗闇の向こうには何も見えない。
ただ、遠くで軍馬の足音がしている。
母とクレールの姿が目に浮かんだ。
「……逃げられないな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
翌朝まで村に残る。
それくらいならできる。
そう思った。
そこから先のことは、その時考えればいい。
――そして。
「飲むか!」
誰かの声がした。
エリアスは振り返った。
酒場の扉が開き、村の男たちが酒瓶を掲げている。
「戦争なんだろ!だから飲むんだよ!」
「明日には飲めなくなるかもしれんぞ!」
「だったら今夜飲もうじゃねぇか!」
「縁起でもねえ!」
笑い声が起こる。
エリアスはそれらを睨んだ。
「……何なんだよ、お前ら」
「お前も来い、士官候補生!」
「嫌だよ」
「軍人なんだろ!」
「候補生だって言ってるだろ!」
「細けえ!」
集まってきた男たちに引っ張られるように、エリアスも輪に加わった。
慣れ親しんだ村人。
いつの間にかほとんどの顔が揃っていた。
酒が回り始める。
誰かが昔の失敗を話し、誰かがそれを大笑いする。
ロシア軍の噂は何度も出たが、最後にはどうでもいい話へ変わった。
「俺は昔、熊を倒したことがある」
「嘘つけ。熊に追いかけられて納屋に逃げ込んだだけだろ」
「細かいな!」
「全然違うだろ!」
笑い声が起きる。
エリアスも笑った。
こんなに馬鹿馬鹿しくて、安心できる時間が、これからも続くような気がした。
酒を飲みながら、エリアスは何度も思った。
(ここにいて、よかったのかもしれない)
少なくとも今は。
逃げることは、やめた。
理由なんて、まだよく分からない。
母がいるから。
クレールがいるから。
皆がいるから。
この村が自分の故郷だから。
たぶん、それだけだった。
夜が深くなる。
酒瓶が一本、また一本と空になっていく。
最後には、誰かが卓に突っ伏して眠り始めた。
エリアスも眠気を覚えながら、ぼんやりと酒瓶を眺めていた。
――朝になったら、何か考えよう。
それでいい。
そう思っていた。
そして、朝が来た。
最初に異変に気づいたのは、教会の鐘だった。
ただし、いつもの朝の鐘ではなかった。
乱暴に鳴らされている。
一度。
二度。
三度。
酒場にいた人々が顔を上げる。
エリアスは眠気の残った目を擦りながら立ち上がった。
「……何だ?」
外へ出る。
村人たちも次々と外へ集まってくる。
教会の前に人が集まり始めた。
誰かが叫ぶ。
「隣村だ!」
エリアスはそちらを見る。
村の東側。
森の向こうにある小さな集落。
普段なら、煙が一筋上がっている程度しか見えない。
だが今朝は違った。
高い場所に、一本の旗が立っている。
風に煽られ、布が大きく翻っていた。
遠くからでも、その色と紋章ははっきりと分かった。
エリアスの酔いが、一瞬で覚める。
誰も声を発さなかった。
昨日まで冗談を言っていた村人たちも、ただ東を見つめている。
旗が、もう一度大きく翻った。
白、青、赤の三色旗。
――ロシア帝国の旗だった。
エリアスは息を呑んだ。
噂ではなかった。
演習でもなかった。
逃げてきたドイツ軍が恐れていたものが、ついに、自分たちの目に見えるところまで来ていた。
ーーー
誰も動かなかった。
ブリュンハルト村の東に見える丘。その頂に立つ旗は、朝風を受けるたびに大きく膨らみ、白い布地を何度も翻していた。
ロシア帝国の旗。
昨日までなら、教科書の片隅に載っているだけの国だった。
今、それが目の前にある。
「……あれ、本物なのか?」
誰かが呟いた。
「旗だけだ。兵隊は見えない」
「だから何だっていうんだ」
「隣村にロシアの旗があるんだぞ!」
少しずつ声が大きくなっていく。
老人の一人が震える手で胸元の十字架を握った。
別の男は家へ駆け戻り、戸締まりを始める。
昨日まで酒を飲んで笑っていた村人たちは、もう誰も笑っていなかった。
エリアスは東を見つめ続けた。
あまりにも静かだった。
砲声も聞こえない。
銃声もない。
だからこそ恐ろしかった。
敵が見えない。
ただ旗だけが、そこにある。
「エリアス」
クレールの声がした。
「どうするの?」
「分からない」
正直な答えだった。
士官学校では、こういう時にどうするかを教えられている。
敵情を確認し、司令部へ報告し、部隊を整え、退路を確保する。
しかし今、自分がいるのは士官学校の演習場ではない。
手元に部隊はない。
命令もない。
あるのは、家族と村人だけだ。
エリアスは旗を見たまま、唇を噛んだ。
逃げるなら、まだ間に合うかもしれない。
だが、村はどうなる。母さんは。
エリアスはとっさに踵を返し、家の方角へと歩き出した。
「待ってよ……軍隊は?」
クレールが必死についてくる。
「西に消えた」
「昨夜通った軍は?」
「もういない」
「全部?」
「西へ行った」
クレールの顔が引きつる。
つまり、村に残っているのは村人だけ。
帝国軍は、この場所を守るつもりがない。
そう理解した時だった。
道の向こうから、再び馬の音がした。
今度は昨日のような大勢ではない。
二頭。
それだけだった。
エリアスとクレールは身構えた。
現れたのは、二人の騎兵だった。
どちらも帝国軍の制服を着ている。
先頭の男は、馬上でも妙に姿勢が良かった。
珍しい、爽やかな黒髪。エリアスと同じだった。
年齢は二十代前半だろう。
若い。
それなのに、肩には明らかに士官の階級章がある。
もう一人は整った銀髪だった。先頭の男より少しだけ小柄で、馬を降りるなり大きく息を吐いた。
「……やっと着いた」
その言葉に、隣の男が振り返る。
「何を安心している」
「安心したっていいでしょう。俺は二十キロも馬を走らせたんですよ」
「私も走らせた」
「閣下は馬に乗ってただけでしょう」
「お前も乗っていただろう」
「精神的には走ったんです」
エリアスは呆然と二人を見ていた。
黒髪の士官がこちらへ歩いてくる。
「ここがブリュンハルトか?」
エリアスは反射的に姿勢を正した。
「はい」
「名前は?」
「エリアス・ヴァルク。士官候補生です」
「そうか」
男はそれ以上興味を示さなかった。
そして、なぜか自然な動作で道端の家へ向かった。
そこは、エリアスの家だった。
「……え?」
エリアスが間の抜けた声を漏らす。
男は玄関を開ける。
「邪魔するぞ」
「ちょっと待ってください!」
エリアスとクレールが追いかける。
だが男は当然のように家の中へ入り、暖炉の前に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
そのまま手を暖炉へかざす。
「ああ、暖かいな」
「いや、ちょっと……」
「何だ?」
「ここ、僕の家です」
「そうみたいだな」
「初対面ですよね?」
「そうだな」
「だったら、なぜそんな当然みたいにくつろいでるんですか?」
男は少し考えた。
「疲れたからだ」
「そういう問題じゃない!」
後ろから、銀髪の士官が飛び込んできた。
「閣下!」
「何だ」
「勝手に民家へ上がらないでください!」
「座りたかった」
「だからといって!」
その男は頭を抱えた。
エリアスは二人を交互に見た。
片方は暖炉の前で完全にくつろいでいる。
もう片方は、その相手に対して今にも頭を抱えて倒れそうになっている。
母も台所から顔を出した。
「……お客様?」
「そうらしい」
エリアスが答える。
「お茶を出しましょうか?」
「お願いします」
ファルケと呼ばれた士官が即答した。
「お前も自然に頼むな!」
エリアスが叫ぶ。
母が急いで台所へと向かう。
黒髪は、まるで自分の家のように椅子へ深く腰掛けたまま、エリアスを見上げた。
「エリアス」
「……はい」
「思ったより若い」
「士官候補生ですから」
「そうだったな」
彼はわずかに笑った。
「私はアーデル。彼はファルケだ」
アーデルは銀髪の士官を指さした。
「……それだけですか?」
「それ以上必要か?」
「階級は?」
「大将」
エリアスは黙った。そして乾いた笑みを浮かべる。
暖炉がぱちりと鳴った。
「……はい?」
「大将だ」
「いや、聞き間違えました。大尉ですね」
「大将だ」
「こんなところに?」
「いる」
「一人で?」
「二人いるだろう」
「そういう意味じゃなくて!」
ファルケが頭を抱えた。
「すまんが、本当に大将なんだ」
「信じられない」
「俺だって信じたくないさ」
「貴方は何なんだ?」
「中佐。アーデル閣下の副官だ」
アーデルは暖炉を見ながら言った。
「私は一応、ハプスブルク直属の大将なのさ」
「……」
エリアスはしばらく何も言えなかった。
なんだ、コイツは。
ロシア軍が隣村まで来ている。
帝国軍は敗走している。
村人たちは怯えている。
自分は逃げるか残るかで悩んで、朝から胃が痛くなりそうなのに。
大将は、人の家の暖炉の前で暖まっている。
「ハプスブルクの大将なら……」
エリアスがようやく口を開く。
「ロシア軍にどう対処するか、何か考えているんですよね?」
アーデルは黙った。
「……」
「閣下?」
「……まだ考えてない」
エリアスの顔が固まった。
「は?」
「敵が近くにいることは知っている」
「それだけですか?」
「うん」
「うん、じゃないでしょう!」
ファルケが割り込む。
「いや、エリアス。俺には一応案があるぞ」
「本当ですか?」
ファルケはエリアスを向いた。
「敵は我々が夜間に急襲すれば混乱する。その混乱に乗じて、村の北側から――」
ファルケは真剣な顔で、ポケットから小さな地図を広げた。
「……こちらへ回り込み、さらに東へ迂回して、敵の背後を――」
エリアスは地図を見た。
そして、窓の外を見る。
「この村、完全に平地ですよ」
「ああ」
「敵に気づかれずに背後へ回れる道は?」
「それは…」
「兵力差は?」
「分からん」
「敵の数は?」
「分からん」
「こちらの手勢は?」
「……黙秘する」
「では、どうしてその作戦が成功すると思うんですか?」
ファルケは黙った。
「……成功してほしいからだ」
「願望じゃないですか!」
家の中に、妙な静寂が落ちた。
クレールがため息を漏らした。
アーデルだけが何事もなかったように暖炉を眺めている。
エリアスは頭を抱えた。
こんな連中に、どうしろというのだ。
ロシア軍の旗は、まだ隣村に翻っている。
エリアスは窓からそれを見た。
背中に冷たい汗が流れた。
逃げるべきだ。
今度こそ、本当に。
軍人でもない村人と一緒に、こんな場所に残る理由はない。
母には逃げてもらえばいい。
クレールにも。
自分は学校へ戻る。
そうすれば――。
しかし、奥から母の声が紅茶を台にのせてやってきた。
彼女はアーデルを見やり、アーデルはニコニコ微笑む。
そして母の視線が、アーデルに向いた。
「エリアス」
「……何?」
「今夜、村のみんなで話し合うわ」
「何を?」
「決まっているでしょう」
母は少しだけ微笑んだ。
「どうやって、この村を守るかよ」
エリアスは答えられなかった。
窓の外では、ロシアの旗が風に揺れていた。
【歴史断片・2039年】
ハプスブルク家はプロシア軍閥と同盟を結び、分裂状態にあったドイツへ進軍。
ベルリン入城を果たした翌年、ドイツへの影響力を維持していたフランス軍を撃破し、ドイツ統一を宣言した。
読んでくれた皆さん、ありがとうございました




