触れることのない指先
卒業式まで、あと一週間。
学園の空気は、どこか落ち着かなかった。
廊下では進路の話が飛び交い、令息たちは配属先や騎士団の噂を語り合い、令嬢たちは最後の夜会に誰を誘うかで声を弾ませている。
春はもう目前まで来ていた。
中庭の木々には淡い蕾が滲み始め、風の匂いも冬の硬さを失いつつある。
けれどエレーナ・ヴィニエの胸の内だけは、季節に取り残されたままだった。
卒業すれば、終わる。
その事実を、最近は嫌というほど思い知らされる。
カイル・ローウェルは卒業後、北方へ赴任するらしい――そんな噂を耳にしたのは数日前だった。
第一王子直属の任務。
辺境の調査と治安維持。
優秀な人材にしか任されない重要な役目だと、周囲は口々に称賛していた。
当然だ、とエレーナも思う。
カイルはそういう人だ。
誰かを守るために生きることを、迷いなく選べる人間。
だからきっと、この学園での日々も、静かに過去へ置いていくのだろう。
図書室へ向かう廊下を歩きながら、エレーナはそっと息を吐いた。
あと何回、彼を見られるのだろう。
あと何回、この場所で同じ時間を過ごせるのだろう。
そんなことばかり考えてしまう自分が嫌だった。
けれど足は止まらない。
結局今日も、彼女は図書室へ来てしまう。
重厚な扉を開くと、静かな空気が頬を撫でた。
古い紙の香り。
乾いた木の匂い。
遠くで頁をめくる微かな音。
いつもの静寂だった。
エレーナは小さく安堵しながら、窓際へ視線を向ける。
そして、息を止めた。
いた。
カイルが、今日も窓辺の席に座っている。
淡い午後の日差しが肩口へ落ち、濃紺の制服の輪郭を柔らかく照らしていた。机の上には何冊もの資料と、広げられた古びた地図。
真剣な横顔。
伏せられた睫毛。
その姿を見ただけで、胸が静かに熱を帯びる。
見ているだけでよかったはずなのに。
どうして最近は、それだけでは足りなくなってしまったのだろう。
エレーナは視線を落とし、いつもの席へ向かおうとする。
その時だった。
「ヴィニエ嬢」
名前を呼ばれた。
心臓が大きく跳ねる。
思わず立ち止まり、ゆっくり振り返ると、カイルがこちらを見ていた。
「少し、よろしいか」
穏やかな声音だった。
けれどエレーナの鼓動は、壊れそうなほど速くなる。
「は、はい……」
声が掠れる。
カイルはどこか困ったように眉を下げ、机の上の地図へ視線を落とした。
「君は北方の伝承に詳しいと聞いた。この辺りの古い地名について、何か知っていることはないだろうか」
北方。
その言葉だけで、胸の奥が冷える。
やはり本当に行ってしまうのだ。
遠い場所へ。
自分の知らない景色の中へ。
けれどエレーナは感情を押し隠し、そっと机へ近づいた。
広げられた地図はかなり古いものらしく、端が擦り切れている。細かな文字は薄れ、今では使われていない地名がいくつも記されていた。
「……この辺り、でしょうか」
「ああ」
カイルが身を寄せる。
その距離の近さに、エレーナの息が止まりそうになる。
三十センチも離れていない。
肩が触れそうだった。
微かに香る革手袋の匂い。
外気を含んだ冷たい空気。
その奥に、沈丁花にも似た淡い香りが混じっている。
知らなかった。
彼がこんな香りを纏う人だなんて。
そんな些細な発見だけで、胸の奥が苦しくなる。
エレーナは視線を地図へ落とした。
「ここは、昔“琥珀の森”と呼ばれていたそうです」
「琥珀の森?」
「はい。冬の間だけ枯れない花が咲くという伝承があります。雪に埋もれても消えず、春が来るまで淡く光り続ける花だとか」
静かに説明しながら、エレーナは指先で地図の一角をなぞる。
その隣へ、カイルの手が置かれた。
近い。
あまりにも近い。
「……まるで物語だな」
ふっと、カイルが笑った。
その声は低く穏やかで、雪解け水みたいに静かだった。
エレーナは思わず顔を上げる。
彼の目元が柔らかく緩んでいた。
いつもの張り詰めた表情ではない。
王子の側近としてではなく、一人の青年として笑っている顔。
その表情を見た瞬間。
胸の奥へ鋭い痛みが走った。
(駄目……)
これ以上、知ってはいけない。
優しい声も。
笑った顔も。
こうして静かに話す時間も。
知れば知るほど、失う時が苦しくなる。
彼が向ける視線に意味などない。
これはただの礼儀だ。
偶然、自分の知識が役に立っただけ。
そう言い聞かせなければ、期待してしまいそうになる。
エレーナは唇を噛み、視線を落とした。
その時だった。
地図の上で、二人の指先が触れそうになる。
白い指先と、剣を握る硬質な指。
あとほんの少しで重なってしまう距離。
瞬間、エレーナは弾かれたように手を引いた。
「あ……」
空気が揺れる。
自分でも不自然な反応だと思った。
けれど身体が勝手に逃げていた。
「失礼しました……」
声が小さく震える。
「私のような者が、お時間を取らせてしまって……」
違う。
本当はそんなことを言いたいわけじゃない。
もっと話していたい。
もう少しだけ隣にいたい。
けれど、それを許してしまえば戻れなくなる気がした。
カイルは何か言いかけるように目を細めた。
その瞳に、ほんの一瞬だけ、説明のつかない色が過ぎる。
戸惑いにも似た。
引き止めるような。
けれどエレーナは、それを見る余裕もなかった。
「参考になりました。ありがとう、ヴィニエ嬢」
静かな声。
優しい声音。
それが余計に苦しい。
エレーナは小さく頭を下げると、そのまま逃げるように踵を返した。
長い書架の間を歩く。
けれど心臓の音ばかりがうるさい。
指先が熱い。
触れてもいないのに。
触れなかったはずなのに。
どうしてこんなにも、彼の体温を感じてしまうのだろう。
図書室の扉へ辿り着いた時、エレーナは一度だけ振り返った。
窓辺の席。
夕暮れの光の中で、カイルはまだこちらを見ていた。
その視線の意味を、エレーナは知らない。
知ってはいけないと、自分に言い聞かせる。
けれど胸の奥では、小さな願いが消えずに残っていた。
もしも。
ほんの少しだけでも。
あの人が、自分を特別に見てくれていたなら――。
そんな叶うはずのない夢を、春の夕暮れはあまりにも優しく包み込んでしまうのだった。




