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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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2/18

触れることのない指先

 卒業式まで、あと一週間。


 学園の空気は、どこか落ち着かなかった。


 廊下では進路の話が飛び交い、令息たちは配属先や騎士団の噂を語り合い、令嬢たちは最後の夜会に誰を誘うかで声を弾ませている。


 春はもう目前まで来ていた。


 中庭の木々には淡い蕾が滲み始め、風の匂いも冬の硬さを失いつつある。


 けれどエレーナ・ヴィニエの胸の内だけは、季節に取り残されたままだった。


 卒業すれば、終わる。


 その事実を、最近は嫌というほど思い知らされる。


 カイル・ローウェルは卒業後、北方へ赴任するらしい――そんな噂を耳にしたのは数日前だった。


 第一王子直属の任務。


 辺境の調査と治安維持。


 優秀な人材にしか任されない重要な役目だと、周囲は口々に称賛していた。


 当然だ、とエレーナも思う。


 カイルはそういう人だ。


 誰かを守るために生きることを、迷いなく選べる人間。


 だからきっと、この学園での日々も、静かに過去へ置いていくのだろう。


 図書室へ向かう廊下を歩きながら、エレーナはそっと息を吐いた。


 あと何回、彼を見られるのだろう。


 あと何回、この場所で同じ時間を過ごせるのだろう。


 そんなことばかり考えてしまう自分が嫌だった。


 けれど足は止まらない。


 結局今日も、彼女は図書室へ来てしまう。


 重厚な扉を開くと、静かな空気が頬を撫でた。


 古い紙の香り。


 乾いた木の匂い。


 遠くで頁をめくる微かな音。


 いつもの静寂だった。


 エレーナは小さく安堵しながら、窓際へ視線を向ける。


 そして、息を止めた。


 いた。


 カイルが、今日も窓辺の席に座っている。


 淡い午後の日差しが肩口へ落ち、濃紺の制服の輪郭を柔らかく照らしていた。机の上には何冊もの資料と、広げられた古びた地図。


 真剣な横顔。


 伏せられた睫毛。


 その姿を見ただけで、胸が静かに熱を帯びる。


 見ているだけでよかったはずなのに。


 どうして最近は、それだけでは足りなくなってしまったのだろう。


 エレーナは視線を落とし、いつもの席へ向かおうとする。


 その時だった。


「ヴィニエ嬢」


 名前を呼ばれた。


 心臓が大きく跳ねる。


 思わず立ち止まり、ゆっくり振り返ると、カイルがこちらを見ていた。


「少し、よろしいか」


 穏やかな声音だった。


 けれどエレーナの鼓動は、壊れそうなほど速くなる。


「は、はい……」


 声が掠れる。


 カイルはどこか困ったように眉を下げ、机の上の地図へ視線を落とした。


「君は北方の伝承に詳しいと聞いた。この辺りの古い地名について、何か知っていることはないだろうか」


 北方。


 その言葉だけで、胸の奥が冷える。


 やはり本当に行ってしまうのだ。


 遠い場所へ。


 自分の知らない景色の中へ。


 けれどエレーナは感情を押し隠し、そっと机へ近づいた。


 広げられた地図はかなり古いものらしく、端が擦り切れている。細かな文字は薄れ、今では使われていない地名がいくつも記されていた。


「……この辺り、でしょうか」


「ああ」


 カイルが身を寄せる。


 その距離の近さに、エレーナの息が止まりそうになる。


 三十センチも離れていない。


 肩が触れそうだった。


 微かに香る革手袋の匂い。


 外気を含んだ冷たい空気。


 その奥に、沈丁花にも似た淡い香りが混じっている。


 知らなかった。


 彼がこんな香りを纏う人だなんて。


 そんな些細な発見だけで、胸の奥が苦しくなる。


 エレーナは視線を地図へ落とした。


「ここは、昔“琥珀の森”と呼ばれていたそうです」


「琥珀の森?」


「はい。冬の間だけ枯れない花が咲くという伝承があります。雪に埋もれても消えず、春が来るまで淡く光り続ける花だとか」


 静かに説明しながら、エレーナは指先で地図の一角をなぞる。


 その隣へ、カイルの手が置かれた。


 近い。


 あまりにも近い。


「……まるで物語だな」


 ふっと、カイルが笑った。


 その声は低く穏やかで、雪解け水みたいに静かだった。


 エレーナは思わず顔を上げる。


 彼の目元が柔らかく緩んでいた。


 いつもの張り詰めた表情ではない。


 王子の側近としてではなく、一人の青年として笑っている顔。


 その表情を見た瞬間。


 胸の奥へ鋭い痛みが走った。


(駄目……)


 これ以上、知ってはいけない。


 優しい声も。


 笑った顔も。


 こうして静かに話す時間も。


 知れば知るほど、失う時が苦しくなる。


 彼が向ける視線に意味などない。


 これはただの礼儀だ。


 偶然、自分の知識が役に立っただけ。


 そう言い聞かせなければ、期待してしまいそうになる。


 エレーナは唇を噛み、視線を落とした。


 その時だった。


 地図の上で、二人の指先が触れそうになる。


 白い指先と、剣を握る硬質な指。


 あとほんの少しで重なってしまう距離。


 瞬間、エレーナは弾かれたように手を引いた。


「あ……」


 空気が揺れる。


 自分でも不自然な反応だと思った。


 けれど身体が勝手に逃げていた。


「失礼しました……」


 声が小さく震える。


「私のような者が、お時間を取らせてしまって……」


 違う。


 本当はそんなことを言いたいわけじゃない。


 もっと話していたい。


 もう少しだけ隣にいたい。


 けれど、それを許してしまえば戻れなくなる気がした。


 カイルは何か言いかけるように目を細めた。


 その瞳に、ほんの一瞬だけ、説明のつかない色が過ぎる。


 戸惑いにも似た。


 引き止めるような。


 けれどエレーナは、それを見る余裕もなかった。


「参考になりました。ありがとう、ヴィニエ嬢」


 静かな声。


 優しい声音。


 それが余計に苦しい。


 エレーナは小さく頭を下げると、そのまま逃げるように踵を返した。


 長い書架の間を歩く。


 けれど心臓の音ばかりがうるさい。


 指先が熱い。


 触れてもいないのに。


 触れなかったはずなのに。


 どうしてこんなにも、彼の体温を感じてしまうのだろう。


 図書室の扉へ辿り着いた時、エレーナは一度だけ振り返った。


 窓辺の席。


 夕暮れの光の中で、カイルはまだこちらを見ていた。


 その視線の意味を、エレーナは知らない。


 知ってはいけないと、自分に言い聞かせる。


 けれど胸の奥では、小さな願いが消えずに残っていた。


 もしも。


 ほんの少しだけでも。


 あの人が、自分を特別に見てくれていたなら――。


 そんな叶うはずのない夢を、春の夕暮れはあまりにも優しく包み込んでしまうのだった。



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