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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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17/18

余白に咲く物語

 季節は、静かに積み重なっていった。


 春に芽吹いた若葉は夏の陽射しを浴び、秋には黄金へ染まり、冬には雪の下で眠る。その巡りを幾度も繰り返すうちに、森の別邸にもゆっくりと歳月が降り積もっていた。


 朝露に濡れる花壇。

 暖炉の火。

 窓辺に並ぶ古書。

 庭を吹き抜ける風。


 変わらないものもあれば、少しずつ変わっていくものもある。


 エレーナは鏡を見るたび、時の流れを感じるようになっていた。長い髪には、ところどころ銀糸みたいな白が混じり始めている。目元には穏やかな皺が刻まれ、昔の少女らしい儚さは、今では静かな落ち着きへ変わっていた。


 けれど、不思議と寂しさはなかった。

 それはきっと、一人ではないからだ。


「エレーナ」


 夕暮れの図書室。

 本棚へ背を向けていた彼女へ、低く穏やかな声が降る。

 振り返ると、カイルが立っていた。


 窓から差し込む橙色の光が、彼の銀灰色の髪を柔らかく照らしている。

 彼もまた、歳を重ねていた。鋭かった輪郭は少し穏やかになり、昔より笑うことが増えた。若い頃に負った傷跡は薄く残っているが、それさえも今では彼の人生の一部みたいに静かに馴染んでいる。


 それでも。

 彼の瞳だけは、何も変わらなかった。

 エレーナを見つめる時の熱だけは、図書室の片隅で、遠くから彼女を盗み見ていた青年の頃と、少しも変わらない。


「どうしたのです?」


 エレーナが笑うと、カイルは何も言わず近づいてくる。

 そして彼女の頬へかかった髪を、そっと耳へかけた。

 その仕草は今でも驚くほど丁寧だった。まるで壊れ物を扱うみたいに。


「……また難しい顔をしてた」

「そんな顔をしていましたか?」

「ああ」

 カイルは苦笑する。

「昔、図書室で一人で本を読んでいた時みたいな顔だった」


 エレーナは少し照れたように笑った。

 窓の外では夕陽が森を赤く染めている。鳥たちは巣へ帰り、小川の水面は琥珀色に輝いていた。

 この時間が、エレーナは好きだった。一日の終わり。世界が静かになる時間。

 その穏やかな空気の中で、二人は自然と図書室へ集まるようになっていた。


 本棚の中央には、一冊の革装丁の本が置かれている。

 古びた深緑色の表紙。金の箔押し。何度も開かれたことで角は柔らかく擦れていた。

 それは、二人が少しずつ書き綴ってきた記録だった。


 英雄譚ではない。国を揺るがす陰謀も、華々しい戦争も、歴史に残る偉業も書かれていない。

 そこにあるのは、ただ日々の断片だけだ。


 カイルが本を開く。

 ページの間から、乾燥した小花が一枚落ちた。


「懐かしいな」

「それ、レオンが十歳の時に栞にした花ですね」

「ああ。『絶対に枯れない花だ』って騒いでた」


 二人は笑う。


 ページには、丁寧な筆跡が並んでいる。

 ――『今日はレオンが初めて木登りをした。降りられなくなって泣いたあと、エレーナに抱きついていた』

 ――『エレーナが焼いたパンが少し焦げた。だが香ばしくて、結局全部食べた』

 ――『夕暮れの庭で、二人でワルツのステップを踏んだ。昔より上手くなった気がする』


 文字を追うたび、過ぎた日々が静かに蘇る。

 雨の日に三人で読んだ本。雪の日の暖炉。レオンが初めて剣を持った朝。エレーナが熱を出した夜、カイルが不器用に粥を作ったこと。


 取るに足らない、小さな時間。

 けれど二人にとっては、何より大切な宝物だった。


「……不思議ですね」

 エレーナが小さく呟く。

「昔の私は、こんな日々を夢見ることすらできませんでした」


 カイルは静かに彼女を見る。

「どうして?」


「だって、私は脇役でしたから」

 エレーナは苦く笑う。

「誰かの幸せを遠くから見つめるだけで、自分には何も与えられないと思っていました」


 その言葉に、カイルはゆっくり首を横へ振った。

「違う」

 低く穏やかな声。

「君は最初から、僕の物語の中心だった」


 エレーナの瞳が揺れる。

 カイルはそっと彼女の左手を取った。歳月を重ねた手。細く白い指には、今も琥珀の指輪が光っている。

「気づくのに時間がかかったけどな」

 苦笑混じりの声。

「僕は昔、本当に馬鹿だった」


「ふふ」

 エレーナは肩を震わせる。

「それは否定しません」


「酷いな」


「でも」

 エレーナは彼の手を握り返す。

「そんな遠回りをしたからこそ、今があるのでしょうね」


 窓の外で風が吹いた。木々がざわめき、夕暮れの光が揺れる。

 エレーナは静かに本を閉じる。それから、ぽつりと尋ねた。


「ねえ、カイル」

「ん?」

「私たちの物語は、どこまで続くのでしょうか」


 その問いは、不安ではなかった。ただ、穏やかな夜の中でふと零れ落ちた問いだった。

 カイルは少しだけ目を細める。そして、彼女の手をしっかり握り返した。


「終わりなんて、なくていい」

 暖かな声だった。

「僕たちがこの世を去った後も、この余白は続いていく」


 彼は革装丁の本へ視線を落とす。

「レオンが書き加えるだろう」

 静かな声。

「その子供たちも、きっと」


 エレーナは黙って耳を傾ける。


「悲しいこともあるはずだ。間違いも、後悔も」

 カイルは微笑んだ。

「でも、それでいい」


 窓の外では、夜の帳がゆっくり森へ降り始めていた。

「誰かの物語を羨まなくていい。派手な英雄譚じゃなくてもいい」

 彼はエレーナを見る。

「暖炉の火とか、焼きたてのパンとか、春の匂いとか」

 その瞳は優しかった。

「そういう取るに足らないものが、人を生かすんだ」


 エレーナの胸が静かに熱くなる。

 かつて玻璃の箱庭に閉じ込められていた二人。自分を脇役だと思い込み、小さな世界の隅で息を潜めていた魂。

 けれど今、その心は広い空を自由に舞っている。

 互いの孤独を埋め合いながら。余白を満たしながら。静かに。穏やかに。愛し合いながら。


 暖炉の火が揺れる。外では星々が森の夜空へ滲み始めていた。

 カイルは立ち上がり、エレーナへ手を差し伸べる。


「踊る?」


 エレーナは少し驚き、それから笑った。

「音楽もないのに?」


「君がいれば充分だ」

 昔と変わらない台詞だった。


 エレーナはその手を取る。

 図書室の片隅。本の香りに包まれながら、二人は静かにステップを踏む。

 若い頃みたいに完璧ではない。少し足を踏み外して、笑ってしまうこともある。

 それでも。今の二人には、この不完全ささえ愛おしかった。


 窓の外で、季節は巡っていく。


 春が来て。

 夏が過ぎ。

 秋が色づき。

 冬が静かに降る。


 その全てを越えながら、二人はこれからも、余白を綴っていくのだろう。


 終わりのない、小さくて、優しい物語を。


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