#1 甘党
「俺、コーヒー飲めないんだよね」
そう言って彼は、写真集の表紙で見たことがあるような笑顔を添えて、私にカップを差し出した。
新学期が始まって、周りの女子たちがしきりに口にする名前があった。「南くん」は、今年から学科に編入してきた人のことらしい。編入生がただ珍しいし、閉鎖されたコミュニティに新しい風が吹き込むというだけで、男女関係なく沸き立つものだ。最初は、ただそう思っていた。
人数が少なくない学科の中で、誰が編入生なのかなんて、あまり周りに目を配っていない私には到底わからなかった。そもそも、男子の半分以上の名前も顔も知らないのだ。だから、私の中でその「南くん」の噂だけが一人歩きしているのを止める術もなければ、止めようと思うほど興味もなかった。ただ、面白おかしい噂を話半分に聞くことは、それなりに暇潰しになる。それだけだったのに、嘘か本当かわからない情報で、いつの間にか「南くん」について十分に詳しくなっていた。
帰国子女で、海外の大学に進学したけど、やっぱり日本の大学に進学したくなったんだって。もちろん英語ペラペラ。私、フェイスブックで友達になったんだけど、外国人と普通に英語でやりとりしてたよ。なんか、両親がお金持ちで、家はすごい大きいらしい。大きい犬とか飼ってるって。白いグランドピアノがあるらしいよ。南くんもピアノ弾くって! スポーツはサッカーやってたらしいよ、運動もできるんだね。こないだ、構内でスカウトされてるの見た!
誰が言っていたかも、もうわからない。口から離れればそれらの信憑性も、責任の所在も、全てが曖昧になる。それはもはや、その場にいた人たちが協力して作り上げた「南くん」であって、ほとんど空想上の人物だ。
薬指に指輪してるよね、もしかして結婚してるのかな?
蝋人形のそれのように滑らかで精巧な骨格と、浮き出る青い血管。薬指に光る指輪はあんまり輝いていて、新品なのかよく手入れされているのか、私には区別がつかない。
反射的に視線をやったその手を見つめ、言葉を脳の中で処理しようとしながら手の主をもう一度凝視した。
キャラメル色の明るい髪。たれ目がちなのと対照的に、長くきりりとした眉毛。それでも、えくぼがあるのが人懐っこい印象にしている。座っていてもわかるくらい、背が高い。
「南くん」だと確信した。どうしてかわからないけれど、わけもなく自信があった。薬指にきらめく指輪以外に、特定できる要素がないのに。
差し出されたものをずっと放っておくわけにはいかず、カップを受けとる。けれど、どうしたものか。なんとも言えない気まずさに襲われて、私という生き物は変な行動に出た。
「代わりにこれ、よかったらどうぞ」
ここに来た目的だったシフォンケーキの背景で、「南くん」が目を輝かせていた。




