28話
「蕉」史岐が驚いたように言う。
利玖も彼の肩越しにそちらを覗いて、びっくりした。昨夜、キヨドコロで太白を襲撃し、自分の傷を診てくれた乳萱ノ蠍の少女、蕉のことはもちろん覚えていた。しかし、あの時は周囲が暗く、猛毒が体内に入ったかもしれないと動揺していたこともあって、目鼻立ちまで正確に記憶していたわけではない。透きとおるように色の薄い髪と瞳の色をしていたこと、いくつかの武器を身につけ、動きやすそうな、裾の短い、地味な衣を着ていたことくらいしか思い出せなかった。
今、彼女は、その時とはまったく異なる装いで史岐の前に立っている。
踝まで届く長い衣は、ミズバショウを思わせる気高い白さだった。袖はなく、ウエストの高い位置で交差する金の紐が眩しい。全体的にゆったりとした寸法で仕立てられているようだが、それはおそらく、胸元や下半身にドレープを作り出すためだろう。髪もほどいて、きちんと櫛を入れ、頭の左側には淡い橙色の花を差していた。
「どうしたの?」茂みをかき分けて出てきたところで立ち尽くしている蕉を見て、史岐が手招きをする。
蕉は、史岐の後ろから顔を覗かせている利玖を一瞥して、やや後ずさりしながら頭の横の花へ手を伸ばそうとしたが、途中でぎゅっと唇を噛むような表情を見せると、打って変わって勇ましい足取りで近づいてきた。
「太白を討ち取った」史岐の正面に立ち、蕉はずばりと言った。
「そう……、良かった」史岐は眩しそうに彼女を見上げる。「ついて行けなかったのが気がかりだったから。一人で大丈夫だった?」
「一人じゃない」蕉は首をふる。「叢庭の方に行っていた同胞が、見込みのある人間の男に事情を話して、協力を取り付けたんだ。遣り水の下流で待ち伏せをして、わたしが追い立てた太白を取り押さえた」表情は変わらなかったものの、蕉は、ふっと微笑むような気配を見せた。「史岐が、わたしを助けてくれたのだから、叢庭にいた男達が手を貸してくれない道理はない」
史岐が頷くのを感じながら、利玖は、きっと最後に首を刎ねたのは蕉だろう、と考えていた。漱人に化けたζ種をそのようにして仕留めたと聞いていたからだ。しかし、決定的ともいえるそのひと言を、なぜ直接史岐に伝えないのかは気になる。
とはいえ、
本当は、わかっているのだが。
「あと、これを……」蕉は、胸もとから何かを取り出して史岐に渡したようだ。「約束していた、追加の薬だ。必要だったら使ってくれ」
「ありがとう」史岐は、隠れるように背中の後ろで丸まっている利玖に向かってそれを差し出す。昨夜もらったものと同じ容器だが、中身が詰まっていて重かった。
「ありがとうございます」利玖はようやく史岐の隣に座り直して、頭を下げる。「大変なお務め、ご苦労様でした」
「あ、いや」蕉は視線を彷徨わせ、後退しようとする。
すると、史岐が腰を浮かせ、彼女の方へ手を伸ばした。髪に差してあった花を抜き、それを自分の口に近づける。
「綺麗だね」
そう言うと、彼は花の根元を咥えて微笑んだ。
蕉は、真っ赤になり、一歩飛び退いてファイティング・ポーズを取るように胸もとで両手を構えたが、次の瞬間、ばっとこちらに背中を向けて茂みの中に飛び込んだ。
完全な静けさが戻るまで五秒とかからなかった。
次元の違う足の速さだ、と利玖は思う。
「この花は、濁りのない、動物もあまり来ない池のほとりに、夏の朝の短い間しか咲かない。傷むのが早いから、こんなに瑞々しい色をしているのは、摘まれてから時間が経っていない証拠だよ」花を口に挟んだまま、史岐は僅かに目を細める。「これだけは、蕉が自分で選んでつけたんだろうね」
利玖は小さく頷く。
蕉の、あの髪も衣も、きっと大勢に手伝ってもらって整えたのだろう。彼女の生来の美しさがほぼ完璧な形で活かされていた。少なくとも、利玖の場合は、誰の手も借りずにあそこまでの仕上げをするのは難しい。
蕉は、死ぬまで胸の内に秘めておくつもりだったのかもしれない。
きっと、彼女の仲間が──男と情を交わすやり方を良く知っている仲間が──後押しをしたのだ。最後に思い出をもらってこい、と。太白を斃しても、まだ同胞を護衛する使命がある、とあくまで固辞しようとする蕉をあの手この手で言いくるめて、美しい純白の衣を着せ、髪を梳かして、史岐がいる療養所へ送り出した。その行き先を教えたのは、ひょっとしたら、東杢比野漱人だったかもしれない。とにかく、身支度を終えてしまった彼女は、あとはもう無我夢中で山道を駆け上った。こうなってしまった以上、一刻も早く目的を遂げて仲間のところに戻るのが最善手だと思われたからだ。
それでも、療養所に辿り着く直前に一度だけ、自分がどんな姿をしているのか確かめたくなった。裾が長い衣には木っ端や虫がつきやすく、また、生地の色のために、余計にそれらが目立っただろう。髪も乱れていたかもしれない。波のない、鏡のようによく光を映す池のほとりで屈み込んだ彼女は、そこに可憐な橙色の花が咲いているのを見つけた。
そんなストーリィを、利玖は一瞬の内に思い描く。
史岐はまだ花を咥えている。どうやら、蜜を吸っているらしい。
「わたしも子どもの頃、何度か野生の花で同じことをしましたが……」利玖は精一杯、普段どおりの喋り方を意識して口を開いた。「程度に差はあれ、毒を含むものが多いようですよ」
史岐は目もとに笑みを浮かべると、上を向き、かすかに喉を鳴らして蜜を飲み込んだ。それから横を向き、ふっと花を吐き捨てる。
「東杢比野家の敷地内に咲いているものは、毒を持たないように改良されているから大丈夫」彼は、親指で口の端に残った蜜を拭った。「気持ちの良いものじゃないけれどね」




