27話
かこんと軽い音を立てて、硬いものが胸の奥に落ちたような気がした。
利玖は、額に当てていた手を下ろす。
少し遅れて、視線がついてきて、
自分の胸もとを確かめた。
プラスティックの白い円盤も、暗い小さなスリットも、そこには存在しない。
次のゲームを始めるためのコインもなかった。
「覆面を取っても、母親だってわからなかっただろう?」史岐の声は、プラネタリウムの案内人のように、遠く、優しい。「父親似なんだよ、僕」
「性別が同じだから……、でしょう?」
「そう、男だ。僕も、父も」史岐は頷く。「父は、熊野家を継ぐにあたって、血筋にも教養にも申し分のない令嬢を妻に迎えた。最初の子どもは、待ち望まれた男児だったけれど、生まれてすぐに亡くなった。次に生まれたのも男児だった。彼は、一応は健康に育って、父の望みどおりに『五十六番』を継承することが出来たけれど、良家の娘との縁談をふいにした。その縁談を円滑に進めるために地元の大学へ進ませたのに、そのことにも意味がなくなった。こうなれば……」史岐は軽く握った手を、頭の横で開くジェスチャをする。「今度は条件を変えてやり直そう、と考えるのも、自然なこと」
「母系に要因があると考えた」利玖は論文を翻訳するような口調で言った。
「そう」史岐は頷く。「自分に問題がある、という発想はしない人だからね。『五十六番』自体は、それほど希少性が高くない。ナンバリングされていることからもわかるように、量産体制が整った商品だ。資金さえあれば新しいものを融通してもらえる。実際、今からでも、別の女性に子どもとの間に子どもを作って『五十六番』を継承させることは、父の力と財産があれば難しいことじゃない。史岐という名の子どもには、もうこれ以上の成長が見込めないと判断して、父は今度こそ、望みどおりの後継者を得るために、どこかに愛人を作っているはずだ」
「じゃあ、松実さんが、旧姓の御簾納を名乗ったのは、素性を隠すためではなくて……」
利玖は呟いたが、それにどんな言葉を続けたいのか、自分でもわからなかった。
史岐も苦笑して首をかしげる。
「戸籍はどうなっているんだろうね。そこまではさすがにわからない。うん、だけど、調べた方が良いかもしれないな。履歴書に書いた名前が住民票と違っていたんじゃ、大問題だからね」史岐はカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。「だけど、僕を外すってことはないと思うよ。万が一の時にスペアとして使えるからね」
「その価値を見出すのはお父様だけです」
「そうだね」史岐は静かに頷く。「実際、母にとっては、それ以上の価値があった。自分が生んだ子どもであるのと同時に、狂うほど愛した男の遺伝子も半分受け継いでいるんだ。思ったとおりに育たなかったから、なんていう理由で殺そうと決めたんじゃないと思うよ。それなら、僕を、史岐という名前で育てることを了承した時点で失敗している。──そうじゃないんだ」
「本当に、史岐さんに大怪我を負わせたかったのなら……」利玖はストロークの長い呼吸を意識しながら話した。「キヨドコロが暗い間に、あの簪で、それが出来たはずでした」
「初めから、返り討ちにされるつもりだった」史岐は、最も多くの自然光を反射させられる角度を探しているみたいに、手に持ったカップを傾けている。「君のお兄さんほどじゃないけれど、僕にも一応、平均的な腕力はある。本気の取っ組み合いになったら、どちらが勝つかは明白だ」
史岐はカップをテーブルに置く。
「狂気の末に息子の殺害を企てた妻が、抵抗に遭い、逆に殺される。そんなことが本当に起きたら、父は死ぬまで醜聞に付き纏われて、その女に、生前もっと寄り添ってやらなかったことを後悔しながら──いや、もう単に、恨んでくれるというだけで満足だったのかな──いずれにしろ、強く意識し続けながら生きていくことになっていた」史岐は、膝の上で両手を組んで目を閉じた。「それが目的だったのかな、最初は……」
彼が遮蔽し、切り離そうとしたものが何だったのか、本当は利玖にもわかっていた。
生まれたばかりの初子を不幸によって亡くし、その傷が癒えぬまま、二人めの子を育てなければならなかった松実は、彼らを別個の存在として捉えることが出来なかった。亡くなった子を再現する装置として史岐を育てたのだ。それは、史岐も自覚していることだった。彼の兄が亡くなったのは、個性すら見分けられないほど早い時期だった。まだ生まれてすらいなかった、と考えたのかもしれない。
しかし、両親にどんな考えがあろうと、史岐は彼らの間に生まれた二人めの子どもであり、正式に死亡届が受理されている兄に成り切ることは出来なかった。それを理解した時、彼の父は、最初の悲劇とすっぱりと縁を絶つように外で新たな嫡子を得ることを選び、反対に母は、自らの内部に向かって崩壊を加速させた。
見切りをつけ、離れていく夫の心と反比例するように、たった一人だけ残された息子は、日を経るごとに、彼の父親に──最初に出会った時の最も鮮烈な印象に──近づいていく。
それを目の当たりにして、生じた感情に気づいた時、松実はきっと、跡形もなく消してしまいたくなったのだ。自分か史岐のいずれか、あるは、その両方を。
史岐も同じ発想をすでに持っていた。
だから、彼女の前で煙草を吸ったのだ。父と同じ、『五十六番』を継ぐ者だけが吸うことを許される特注の煙草を。
おそらく、いくらかは父の仕草も真似たのだろう。そうしてオーバ・ラップを誘発し、松実の精神を完全に瓦解させた。
その煙草の匂いが、彼からまったくしないことに利玖は気がついた。
『五十六番』を継いだ者が簡単に熊野の家を捨てられないように、彼らに与えられる煙草には依存性がある。長い間吸わずにいると酷い頭痛を起こすのだ。眠っている間は、当然吸うことが出来ないのだから、そろそろ辛いはずだ。実際、いつもは起きてすぐに吸っている。
史岐は立ち上がり、縁側まで行って座り込んだ。こちらに背中を向けたまま、板敷きの上に置かれていた大きな硝子の灰皿に手を伸ばし、その姿勢で動かなくなる。
「僕も、欠片もわからないわけじゃない」利玖が跪き、背中に寄りかかると、史岐は低い声で呟いた。
「欠片だけなら、わたしも今、想像することが出来ます」利玖は目を閉じて答える。「血の繋がりがそうさせるのではありません」
史岐は前を向いたまま鋭く息を吸い込み、一瞬静止したあと、それをゆっくりと吐いた。そして、何かおぞましい感覚が込み上げてくるのを抑え込むように背中を丸めながら、片腕を後ろに回して利玖の指を握る。
やはり無理をしていたのだ。
朝食を残さずに食べることだって、本当は苦しかったのだろう。
自分に触れる、力加減と冷たさで、それがわかる。
まだ握られていない指を持ち上げて、彼の手に重ねようとした時、前方の茂みが大きな音を立てて揺れた。




