22話
何も起こらないまま残り時間が三分の一を切った時、利玖は賭けに打って出ることを決めた。松実から聞いた話はどこかが間違っている、と判断したのだ。利玖を欺きたい理由があったのか、太白が嘘を言ったのか、あるいは彼から聞いたという経緯からして偽りだったのかもしれない。いずれにせよ、このまま時間を使い果たしたら「三つの〈試し〉に通って重箱をキヨドコロまで運ぶ」という役目を果たせなくなる。それだけは確実なことだった。
利玖が立ち上がると、センサが動きを感知したのか、部屋全体が深く息を吸い込むようにゆっくりと明るくなる。眠りから覚めることに抵抗している瞼の裏のような暗い橙色の照明だけがずっと点いていたのだが、これでようやく、作業が出来るくらいの明るさが確保された。
一之間とも二之間ともまったく雰囲気が違う空間だった。
足もとは、濃いブラウンのフローリング。天井には大きなシャンデリアが取り付けられている。壁紙の柄も小物も、すべて洋風で統一されていた。
部屋の左右には小型のスポット・ライトが一つずつ置かれ、くっきりとした光を斜め上に向けている。その二つの光線が交差する部屋の中央に、一体の胸像が置かれていた。
ブロンズだろうか。
頭の後ろで一つに束ねられた髪。なめらかな頬。少女の殻を破って女へと変わろうとする危うさを内包した、剥き出しの薄い肩。着色は施されていないが、途方もない数の曲線を組み合わせて作り上げられた立体と、そこに投げかけられる光、その反射と遮蔽によって生み出されるコントラストだけで十分に雄弁だった。目を閉じ、口もとにかすかな笑みを浮かべて俯いたその表情が、同じ大学に通う友人である阿智茉莉花のように見えてぎょっとしたが、近づいてみると、それほど似ていないことがすぐにわかった。特定の人物をモデルにしているわけではないのだろう。抽象化されているために、髪型や肉のつき方、年格好が同じ知り合いがいたら、誰でも一瞬見間違えるのではないか。もしも男だったら史岐に見えたかもしれない、と思った。
その胸像の前に、ざっと数えて十以上の糸巻きが並んでいる。正確な数を把握する必要はなかったし、また、そんな余裕もなかった。おそらくそれぞれ色が違うのだろう。しかし、わかりやすく右から三つと決めて、同時に糸を引き出す。使っていない左手を伸ばして糸切り鋏を握った。
ブロンズ像の少女を見て、必要な長さを計算する。三十センチメートルは欲しいところだ、と思った。定規がないため──丹念に部屋の中を調べる時間があれば見つかったのかもしれないが──目算で糸を切る。ばらばらにならないように両端に結び目を作った。三つ編みにする時間さえなかった。あえかな娘の髪を飾るにはあまりにも粗末な代物だが、今はこれで勘弁してもらうしかない。
ブロンズ像の後ろに回り、束ねられた髪の根元で糸をきつめに蝶々結びにした時、かちりと何かを押した手ごたえがあった。
その直後に、背後でモータが駆動するような低い音。
利玖は思わず振り返る。
木製のスライド・ドアがひとりでに開いていくところだった。それは魔法瓶の蓋のように、この静謐な空間、平日の閉館間際にほんの些細な幸運で客が自分だけになった美術館の一画のような、冒しがたい厳粛さを秘めた三之間をぴったりと密閉していたようだ。隙間から照射される青白い蛍光灯の光は、暗さに慣れた利玖の目には眩し過ぎるほどだった。
「利玖さん?」スライド・ドアが八割ほど開いたところで松実の声がした。「大丈夫? 怪我をなさったの?」
一気に心拍数が跳ね上がる。
真珠のイヤリングと交換で、彼女からはレースの手袋の片方を渡されていた。左手にはめていたものだ。利玖の目の前でそれを外したので、薬指に指輪をしていたことがわかった。
こんな蒸し暑い日に、
どうして、手袋なんかしていたのだろう。
既婚者であることを隠したかったのか。
籤に当たらなければ、叢庭に出るつもりだったのか。
指輪を外せば済むことなのに。
金庫に入れておくのでは、安心出来なかった?
あるいは……、
外すことなど考えられないほど大切なものだけど、自分が結婚していることを周りには知られたくなかった。
知られたくない、と考える誰かがいた。
利玖は息をのむ。
「利玖さん?」
また、松実の声。
さっきよりも、少し近い。
急き立てるように鉦が鳴っていた。
(ああ……)
利玖は震えながら目をつむる。
初めに、僅かでも疑うことが出来ていたら、
気づけたかもしれないのに。
覆面。
指輪を着けたまま、誰にも見せないようにするための手袋。
イヤリングの片方を欲しがったこと。
懐かしい響きのある声。
駄目だ、と思った。
この先に進んではいけない。
「すみません、気分が悪くて……」利玖は、レースの手袋の片方を乗せた重箱をスライド・ドアの向こうへ置き、躰と腕をめいっぱい伸ばして前へ押しやった。「立てそうにありません。これを、代わりに漱人さんに渡して頂けませんか。わたしは、こちらに残って電話をかけます。もし、ウイルス性のものだったら、うつしてしまうかもしれないから……」
「大変だわ」松実が立ち上がる気配がする。「そんなに具合が悪いの?」
咄嗟に後ろへ下がろうとしたが、それよりも一瞬早く、指輪を着けた左手が手首を掴む。
骨まで軋むくらい、痛かった。
次の瞬間には、三之間とキヨドコロの照明が同時に消える。
何も見えない状況で、利玖は強く腕を引っ張られ、前方に倒れ込んだ。




