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大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


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森川と少年 ― 整備士の裏底に触れる

(語り部:黒羽ノ介)


整備士は“失敗が許されない”仕事やった


民間空港としての伊丹が動き出すと、


整備の基準は軍の時代よりもさらに厳しくなった。


ボルト一本の締め忘れが命を奪う


整備記録のわずかな誤記が重大事故につながる


風の読み違いが離陸を狂わせる


夜間整備は、常に容赦のない眠気との戦い


どれだけ心血を注いでも、表立って感謝されることは少ない


森川は、整備主任に激しく叱られた日の夜、


工具箱をぎゅっと握りしめて言った。


「俺ら……人の命を預かっとるんやな。」


少年は静かに頷いた。


「空は嘘つかんけど……人間は嘘つくことがあるから。」


黒羽ノ介は思った。


「あんたら……空の仕事の本当の重さを、知り始めたんやな。」


初めての“重大インシデント”


ある日、整備を終えたばかりの旅客機が、滑走路で急停止した。


原因は――燃料ラインの微細な詰まり。


森川は顔を青くした。


「……俺の見落としや。」


少年は震える声で言った。


「森川さんのせいやない。空が……何か言うてたんや。」


しかし、整備主任の言葉は厳しかった。


「見落としは見落としや。次は命を落とすぞ。」


森川は唇を噛み、拳を握りしめた。


黒羽ノ介は空からその姿を見て呟いた。


「この痛みを越えんと、空の守り手にはなれん。」


少年が“恐怖”を知る


夜間整備のとき、少年の手が機体の下で震えた。


かつての坂東の事故の記憶が、鮮明に蘇ったのだ。


暗闇に響く、金属の軋む音


牙を剥くような風の乱れ


生々しいエンジンの熱と、闇に蠢く影


少年はぽつりと呟いた。


「……怖い。」


森川は少年の肩に、そっと手を置いた。


「怖くてええ。怖さを知っとるやつのほうが、空の仕事には向いとるんや。」


少年は涙をこらえた。


黒羽ノ介は思った。


「あんた……そうやって、坂東の影を越えようとしとるんやな。」


整備士は“誰にも気づかれない英雄”


ある日、二人が徹夜で整備した機体が、


翌朝、満席の乗客を乗せて鮮やかに飛び立った。


誰も、その機体を守った二人の名前を知らない。


誰も、彼らが夜通し冷たい金属に触れていたことを知らない。


森川は遠ざかる滑走路を見つめて言った。


「俺らの仕事って……誰の目にも見えへんな。」


少年は小さく微笑んだ。


「でも……空は見とります。」


黒羽ノ介は空から深く頷いた。


「そうや。空だけは、全部知っとる。」


二人は“空の痛み”を共有する


ある夕暮れ、森川がぽつりと言った。


「なあ……整備士って、ずっと孤独なんやろか。」


少年は茜色の空を見上げて答えた。


「孤独です。せやけど……二人でおったら、その孤独も半分になります。」


森川は、張り詰めていた顔を緩めて笑った。


「せやな。俺ら、空の兄弟やもんな。」


黒羽ノ介は、その言葉に胸を熱くした。


「あんたら……坂東が残した絆を、ちゃんと次の時代へ繋いどる。」


そして二人は“本物の整備士”になる


裏底を知り、痛みを知り、


恐怖を知り、孤独を知り、責任を知り――


それでも二人は空を愛した。


そのとき、彼らは初めて


名実ともに“空の守り手”になった。


黒羽ノ介は空から呟いた。


「あんたらの歩く道が、これからの伊丹の未来を支えるんや。」


昭和30年代初頭 ― 空が“遠くの匂い”を運んできた

ある日の朝、伊丹の空気がいつもと違っていた。


海の向こうの潮の匂い


聞き慣れない異国の油の匂い


遥か遠い国の風の粒子と、肌を刺す空気の密度


わしは空から見て思った。


「……世界の風が、混ざり始めたな。」


森川もその変化に気づいた。


「なんや……今日の空、匂いが違うな。」


少年は風を読むように目を細めた。


「遠い国の風が、ここまで吹いてきとるんです。」


国際線のための“新しい機体”が伊丹に運ばれる

格納庫の前に、巨大な銀色の機体が牽引されてきた。


どこまでも長い機体と、圧倒的に広い翼


地響きのような深いエンジン音


これまでのものとは、風を切る形がまるで違う


森川は息を呑んだ。


「……これ、国内線の機体やないな。」


少年は震える声で言った。


「空が……ざわついとる。」


黒羽ノ介は羽を震わせた。


「世界の空を股に掛ける、“国際線の翼”がやってきたんや。」


初めて聞く“異国の言葉”

機体から降りてきた技術者たちは、これまで耳にしていた米軍の英語とは違う言葉を話していた。


流れるようなフランス語や、アジアの言葉


軍用ではない、生活や文化の滲む生きた英語


森川は驚きに目を見張った。


「……米軍の言葉と、全然違うな。」


少年は、世界へ繋がる空を仰ぎ見て呟いた。


「空が……どんどん広がっていく。」


黒羽ノ介は思った。


「伊丹の空が、ついに世界と繋がり始めたんや。」


国際線整備は“国内線とは別物”だった

新しい機体の整備は、二人がこれまで培ってきた経験を凌駕するものだった。


複雑に入り組んだ電装系


まったく異なる翼の構造と、大容量の燃料システム


高度な気圧調整装置と、外国語で書かれた分厚いマニュアル


森川は頭を抱えた。


「……文字が掠れて読めへんわ。」


少年は悪戯っぽく笑った。


「言葉は違っても、空の声はどこの国でも同じですよ。」


森川は思わず吹き出した。


「お前……ほんまに空の子やな!」


黒羽ノ介は空から頷いた。


「そうや。空の言葉に、国境なんてないんやからな。」


そして――伊丹に初めての“国際線”が降りる

その日、空は吸い込まれそうなほど澄んでいた。


遠くから、これまでにない重厚なエンジン音が響いてくる。


森川が叫んだ。


「来た……国際線や!」


少年は輝く目で見上げた。


「空が……道を開いとる。」


巨大な機体が、ゆっくりと伊丹の滑走路へ滑り込んでくる。


風が震え、雲が割れる


降り注ぐ光が銀色の機体を眩しく照らし、空全体が祝福するように輝いた


黒羽ノ介は呟いた。


「これが……伊丹の“世界への扉”が開いた瞬間や。」


国際線の乗客たちが伊丹に降り立つ

タラップが降ろされ、異国の人々が次々と伊丹の地に足を踏み入れた。


大きなスーツケースを引く欧米人


カメラを首から下げた賑やかな旅行者


異国の空気を持ったビジネスマンや、未来を見つめる留学生たち


森川は、その光景に呆然とした。


「……伊丹に、本当に外国の人が来とるな。」


少年は静かに微笑んだ。


「空には、最初から国境なんてないですから。」


黒羽ノ介は思った。


「あんたらの整備したその手、その機体が、世界と日本を確かに繋げとるんや。」


二人は“世界の空”を支える整備士になる

国際線の整備は、国内線よりもさらに過酷で、責任は無限に重かった。


気が遠くなるような長距離飛行への備え


多国籍の乗客の命を預かる重圧


異なる気候や時差、国際基準の厳しい整備ルール


森川は誇らしげに言った。


「俺ら……今、世界の空を支えとるんやな。」


少年は力強く頷いた。


「空は広いです。せやけど……俺らの手は、もう世界に届いとります。」


黒羽ノ介は空から呟いた。


「あんたらは……伊丹の空の、本当の黄金期を支える者になったんや。」


伊丹の空は、世界とつながった

国内線の空も、国際線の空も。


世界の風も、異国の匂いも。


そして、新しい時代の眩しい光も。


そのすべてが、いまや伊丹の空に激しく、美しく流れ込んでいた。


森川と少年は、その激流の中心で、文字通り「世界の整備士」として立っていた。


黒羽ノ介は、頼もしくなった二人の背中を見守りながら、確信を込めて呟いた。


「ここからや。伊丹の空の、最高の黄金期が始まるんや。」

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