見果てることなき悪夢
「さぁ、飯の時間だよ」
次の食事を、スミンはどれほど首を長くして待ったことだろう。
彼女の時間の感覚は、狭く暗い部屋に閉じ込められているためにもはや完全に破壊されていた。食欲や睡眠欲といった欲求さえ鈍く、曖昧になって、腹は四六時中減って、逆に眠気はほとんど起こらず寝ても熟睡できない。
心身とも限界に近づきつつあったが、今は希望がある。
(あの人が、助けてくれる)
裏切られるかもしれない。だが信じた上での裏切りなら、そのときはもう死のう、とまだ12歳のスミンは思っていた。
女が食事を運び込み、起き上がったスミンの耳に唇を寄せた。
「いいかい、今から扉の向こうで見張ってるあの大男を呼び込む。アンタはここに倒れて、死んだふりをするんだよ。いいかい?」
こくり、とスミンはうなずき、その通りにした。
女が食事を置いて出ていき、すぐに監視役の男があわてた様子で入ってきた。
しゃがみ込み、うつぶせに横たわるスミンに手をかける。
と同時に、異様な気配と音とが短いあいだに輻輳するようにして連続し、地響きがして、やがて手に泥のような感触が伝わった。
目を開けると。
指や掌が、どろりと粘っこい血に濡れている。
「この靴、履きな」
女は血にどす黒く染まったナイフをスミンに持たせ、さらに真新しい靴を用意して、脱出の準備をさせた。
「裏口までは人がいない。この時間、裏手の守りは飲んだくれてるはずだから、脇目を振らずまっつぐに正面の光を目指して走りな。この町の自警団の屯所に行き当たるから、そこに訴えれば保護してくれるだろうさ」
「あの、あなたも一緒に」
「アタイは、もうシャバでは生きられないさ。犬に堕ちちまった人間は、死ぬまで犬なんだよ。アンタは、シャバで人がましく生きなさいな」
「ありがとうございます。ご恩は一生、忘れません」
「小娘が、しびれることを言ってくれるじゃないか。袖をつかみな」
部屋を出ても、あたりは暗く静かだ。しかも狭い。
歩くのが久しぶりだからか、それとも緊張と恐怖のためか、膝をがたがたと震わせつつ、それでも懸命に女の着物の袖を握って、その道筋を追う。
裏口に着いた。
女が、再びスミンの耳元でささやく。
「いいかい、二度とダリに近づくんじゃないよ。さっさと故郷に戻って、ここで起こったことはきれいさっぱり忘れるんだ」
「……はい」
「とにかく、戸を開けたら一目散に走るんだよ」
ぐっ、と歯を噛みしめて、スミンはうなずいた。
女が目で合図をするとともに、視界が一気に開ける。
スミンは脱兎のごとく走った。
背後で騒ぎが起こる気配がある。
それでもスミンは振り向かず走った。
何度か、転びそうになる。
転んだら、そのときはスミンの人生も終わるだろう。
北方の秘薬とやらを飲まされて永遠にあの男の奴隷になるか、それとも殺されるか。
いずれにしても、地獄だ。
ここで捕まるわけにはいかない。
その必死の思いが、スミンの足を動かした。
正面、夜の闇に煌々と明かりの灯る建物を目指し、走り続けた。
明かりはやがて大きくなって、人の姿が見える。
あれが、自警団の屯所とやらだ。
スミンは狂ったように言葉にならぬ叫び声を上げつつ、そこへ飛び込んでいった。
彼女が父母と再会を果たしたのは、次の日の朝のことである。
父ユチャンが医師の看板を立てる宿へと、自警団の護衛隊が送り届けてくれた。
「スミン、スミン……!」
「母上!」
「スミン、ほんとに、ほんとによく無事で……!」
「母上、申し訳ございませんでした」
母娘、抱き合い号泣したことは言うまでもない。
ユチャンは妻子の再会をじっと見守っていたが、スミンがふと彼に目線を転じると、もう涙をこらえることができなかった。
「父上……」
「スミン、すまなかった。つらい思いをさせたな……」
自警団は事情をスミンから聞いていたが、詳しくは父母に伝えていない。あいだに立って伝えるには、彼女の経験はあまりにも凄惨であった。被害のむねを父母に告白するかせぬか、するとしてどの範囲をどのように告白するのか、それはスミン自身に委ねられたのである。
スミンは気丈な娘だった。
ときに震え、ときに涙し、ときに悲痛な声を漏らしながら、彼女は自分がどのような目に遭ったのかを言葉にして、余さず父母に伝えた。
父ユチャン、母ソユン、ともに愕然として声もなかった。
幼い娘は、あまりにも悲惨な体験を経て、ここにこうして戻ってきた。だが今回のことは、彼女の心に永久に傷跡を残すであろう。痛みの決して消えることのない、深い火傷のような傷だ。傷跡を見るたびに、痛みを覚えるたびに、彼女は今回の件を思い出しては苦悩するに違いない。
ソユンは娘にすがるようにその傷ついた体を抱きしめ、悲嘆に暮れた。彼女はスミンが想像したように、自分がそばについていながら彼女を見失い、そのために娘の操を奪われ、あと一歩で廃人となるまでに至ったことに、責任を感じては憂悶していた。母親として、これにまさる苦しみはないであろう。
(我が娘、なんとあわれな……)
父ユチャンとて、娘がかわいい。あれほど明るく、いたいけな笑顔を見せていた娘のかんばせが、今では恐怖のためにひどくゆがんでいる。もう、あの頃の晴れやかな少女の笑顔は戻ってこないのだろうか。
彼はすぐ、妻子を伴い役人に訴えを起こした。主犯はダリ一帯に名を知られているというリュウ・ウェン。裏では人身売買の元締めをやっていて、大勢のいかがわしい連中を手下に抱えている。娘をアジトに連れ込み、その貞操を犯した。
だが、役人どもはユチャンのこの訴えをしりぞけた。
証拠はあるまい、というのがその理由だった。しかも医師であるユチャンが、呪術師として名の売れているリュウ・ウェンを妬んでそのような出まかせを言うのであろうと、痛くもない腹を探られる始末であった。
リュウ・ウェンの裏の商売、役人や豪商などこの街の有力者たちとのつながりは、彼の想像するよりはるかに強固であったということだ。
やむなく、ユチャンはスミンを保護した自警団に相談した。ただ、自主的な警察組織に過ぎない彼らでは、この街で幅を利かせているリュウ・ウェンの徒党に太刀打ちできるものではない。
屯所で話し込んでいるうち、一台の馬車が横を通り過ぎ、その轍に人体の一部が残された。
女の首だ。
スミンはその者の顔に見覚えがあった。
彼女の逃走を手助けしてくれた、あの女であった。
逃げる時、もっと強く、それこそ引きずるようにしてでも、あの女とともに逃げるべきだった。
ユチャンも自警団の者たちも、リュウ・ウェンの意図が分かる。見せしめということであろう。この街にいるのは危険だ。
「とにかく、カンヌン村に戻ろう」
ユチャンは妻子を連れ、自警団が好意でつけてくれた護衛の人数とともに、即日、ダリを離れることとなった。
医師として人を助けたいとの思いから近隣地域を巡っていたわけだが、自分と家族がかかる災難に見舞われるとなれば、もはやダリには近づかぬがよいであろう。
自警団の人々によれば、リュウ・ウェンとその手下どもがダリから出て騒ぎを起こした例は知らないということだ。
ただ、そうはいってもスミンの心が受けた傷は尋常ではない。
カンヌン村の我が家に戻っても、彼女はしばしば悪寒や幻覚に襲われ、悪夢を見ては半狂乱に陥り、両親ともになだめすかしてようやく寝かしつけるという日々が続いた。
リュウ・ウェンの、白い面相。あの男は、まるで化け物だ。あの男がスミンを犯すのは、愛情のゆえではない。純粋な性欲だけでもない。もっと醜悪でどす黒い、人を家畜のように扱い辱めを与えることで、支配し独占したいという欲望のためだ。彼女はもしかしたら、あの男のその欲求に追いかけ回され、一生をかけて逃げなければならなくなるかもしれない。
それに、あの女。名を聞くこともできなかった。恐らく生きたまま首を斬られたのであろう、目は大きく見開いたまま、口は強く歯を噛み締めて、まさに地獄へ落ちなんとする壮絶な面相であった。
そうした連中の顔を思い出すたび、スミンは滝のように汗を流して、頭を抱え、獣のように低いうなり声を漏らした。
苦しみにもだえるスミンの姿に両親も心を痛めることはなはだしく、カンヌン村に戻って半月後には、母ソユンが胸を悪くして寝込んでしまった。




