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月姫 MOON-DIVA  作者: 高峰 玲
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Phase・Ⅹ MISSING


 手に汗握る瞬間、とよく人はいう。


 彼が感じたのは、ひどく乾いた(ドライな)……現実とも思えないようなこの世であった。

 静寂の中を、ナビゲーションシステムの単調なカウンターが時を刻んでいる。


「あれ?」


 彼、という存在がそこに有った。


 ぎくしゃくとした動きで、彼が上げた手は確かにその頬に触れ、両足は床を踏んでいる。

「……生きてら」

 声に出して、やっと気づいた。

 生きて、いるのだ。

 坑道から帰った彼を包んでくれたあたたかい毛布も、父親の怒涛の叱責も、友の抱擁も、なかった。

 震える手足をごまかしてバイクを走らせ、たどりついたドックで仲間たちとふざけながら張った虚勢も、いまはいらない。


 自分は生きている。


 それはつまり、また、恵利奈(えりな)に会えるということだ。

 恵利奈のもとに帰ることができるのだ。

 約束どおりに。

 エフゲニーは幸運をかみしめる思いでいっぱいだった。

 カウンターを停止させると、レンタシップの小さな操縦室から可聴音が消えた。ワープ終了後の正規業務として、システムの点検プログラムを走らせる。そのあいだに、燃料の残量を調べ現在位置を確認する。

 航行は正常に行われていた。彼の船はアルファケンタウリの〈灯台〉から一天文単位内にちゃんとワープアウトしている。もし、このレンジを外していたら……彼の初級免許は取り消しだ。

 宇宙航行法の第五条に明記してある。いかなる宇宙船舶であれ、各恒星系および経由地点に設置された〈灯台〉から一天文単位を半径とする宙域(安全宙域)以外の場所に出現してはならない。銀河連邦の軍艦とて例外ではない。

 もちろん、ワープ航法の性質上、宇宙船が〈灯台〉を外れることはありえない。

 目的地として設定した座標の〈灯台〉と宇宙船、このふたつの点を跳ぶのがワープの基本だからだ。数光年、ときには数百光年という距離を駆け抜けることが可能なエンジンを、人類はまだ開発できていなかった。そして、その道程(みちのり)を越えてゆくには、気の遠くなるような歳月が必要となる。そこで考えられたのがふたつの地点をショートカットさせる方法としてのワープ理論である。

 ロジックとしては手品的な発想といえる。

 一枚の紙で考えるとわかりやすい。いま、自分が紙の端にいて(現在地)もう片方の端が目的地だとする。このふたつを結ぶ直線がたとるべき距離だ。


   挿絵(By みてみん)


このまま進むのが物体の移動では定石である。というか、これ以外、ない。

 ところが、この紙は平面として固定されたものではなく可動のものだとすると、丸めて端と端を寄せることによって現在地と目的地の距離はぐぐっと縮まる。


   挿絵(By みてみん)


 こうして短くなった距離を一気に跳躍する。それをワープと呼ぶ。

 通常の空間で行われる事象ではない。

 どこかで誰かがワープするたびに曲げられる宇宙空間など複雑でわずらわしすぎるし、実際、曲がらなかったのだ。

 運よく曲げることができた異空間──現在使用されているワープ空間は、座標としては四次元と考えられている。そこを通るあいだの経過時間が現存宇宙と同じ進み方をするので(時間比例の法則)、第四次元として時間が加わった空間だと認識されているのだ。

 不備なく論証した人間は、いない。

 本当はどの次元なのか、亜空間と定義すべきなのか(ワープ航法を亜空間飛行航法と呼んでいた時代もあった)も不明だが、利用はできる。

 地球人類は昔から危ない綱渡りが得意なのだ。

 速度として光の速さを超えたわけではないが、ワープ航法によって、銀河のあちこちに人類は足跡を広げ続けている。そしていまのところ、いかなる次元の住民からもこれらの曲技に関する苦情は寄せられていない。

 ワープ機関とはワープ時の移動速度を稼ぐためのエンジンではなく、ワープする区間を設定する装置でありワープ空間へ出入りする通路を確保する装置のことでもある。〈門〉や〈扉〉を宇宙船単位で開くのだ。〈事象の地平の彼方へ至る門〉と呼ぶ者もいる。

 宇宙船は、その持ちうる最高速度をもって、そこへ突入する。思いっきり助走をつけて崖を飛び越えるようなものである。

 崖の幅、つまり現在地と目的地との距離はどんなに上手に紙を丸めてもけっしてゼロにはならない(絶対距離の法則)。それでいて、実質距離とは比べようがない範囲に縮小されるのだ。

 ゼロに限りなく近づいた道程。

 そこを最高速で駆け抜ける。

 所要時間は距離によって異なる。また、正比例数値として導き出すことはできない。極端な話、カウンターに従ってワープインしても、機関を操作する刹那のタイミングで空間の丸め具合が変わるのだ。

 飛距離が短ければ、その差は数秒から数分。これは予定とずれても問題視されない。

 だが長距離を跳ぶ場合、時間経過と燃料の消費、どちらの面からみても最小値をマークするのが理想となる。それを成しとげる操船者の存在はなによりも貴重だ。訓練や技術として身につくものではない。偶然の産物なのだ。ゼロカウントのどの呼吸でスイッチを入れるかなど、誰にだって、そろえることはできない。

 しかし、世の中には奇跡的な確率でそのタイミングを捉えることが可能な人間もいる。たいてい、長距離航路便のパイロットの中から発掘され、すぐに銀河連邦軍からスカウトが来る。

「俺もスカウトされるかもな」

 五光年未満のワープながら、あんな無茶な入り方で無事に生還できたのは、まさに奇跡としか言いようがなかった。

 時空が、曲がって近づくだけなら、いい。ねじれて一回転して〈絶対距離の法則〉が壊れてくっついてしまい、メビウスの輪ができてそこに閉じこめられるなんてことだって、あったかもしれないのだ。

 喉元すぎれば……のことわざどおり、エフゲニーは楽天家だった。

 一般的な〈灯台〉は地球での灯台にガソリンスタンドと大型のコンビニエンスストアが併設された形式の宇宙ステーションだ。最前の飛行で消費した燃料は、総量の五パーセントにもならなかったが、宇宙を航行する者の原則を守り、彼はワープアウトするごとに補給することにしていた。恒星系に入るにしろ、通過するにしろ、その五パーセントで助かる不測の事態を警戒しなければならない。

 現在、アルファケンタウリの星系は〈月〉として開発されていない。連星の太陽は、よっぽど安定した環境を備えていないかぎり、敬遠されるのだ。

 ましてやここには、プロキシマという公転周期が長くて調査しきれていない伴星らしきものもある。

 が、太陽系にいちばん近い恒星系としてちょっとした観光地になっている。遠足や修学旅行、あるいは泊りがけのデートの……。

 トリマン(葡萄のつるの射手)という別名にちなんで、葡萄を使ったお菓子が売店には多く並んでいた。彼は甘党ではないが、お土産としてアルファケンタウリ饅頭(これはそれぞれの恒星に見立てた小さな饅頭が三つ、くっついた形をしている。餡の中身も三種類だ)と葡萄パイを買うことにした。

 トラブルが発生しかけたのはそこのレジでだった。

 約二千リットルの純正燃料と菓子箱の代金をエフゲニーはカードで決済しようとした。

 地球では最大手といわれている銀行のカードだ。子供のころからのお小遣いやらアルバイト代で、多少の貯蓄額は口座にあった。

 それを、アルファケンタウリのチェッカーは『使用できません』と拒絶した。

 パスワードも指紋も網膜パターンも関係なかった。カードの属性を読み取った時点で、口座の存在を否認するのだ。

「ヘンな磁気とか、浴びた覚えねぇけどな」

 マテリアルとしてカードが使用不能になるのはよくあることなので、彼も対応していた店員もあまり気にしていなかった。

「んじゃ、こっちで」

 旅費として地球−アポロニア間の正規運賃が振り込まれた俸給用の口座のカードを出す。それもはねられた。

「お客さん、財布ポケットに入れたまんまでエンジンの中に入って作業とか、しませんでした?」

「いやぁ?」

 彼は、修理関係はプロに任せることにしている。

 地球で作った口座がふたつともだめなので、最終手段としてアポロニアの銀行用のカードを取り出した。金額はいまの支払いに足りるはずだが、恵利奈との生活費のための共有口座なので、なるべく減らしたくないのだが。

 チェッカーを通すとディスプレイが操作モードになった。ほっとする店員に応えながら、カードとともに出てきた明細の残額に彼はぎょっとした。

「なんで……?」

 考えていたより、金額が多く残っている。それも、ハンパじゃない額だ。

「宝くじでも買ったのかなぁ」

 そういった種類のケタだった。

 恵利奈がチャンスセンターに並ぶ姿など、想像もつかない。ミスマッチもいいところだ。無欲の勝利で幸運を手にするのに、ふさわしい人間性の持ち主には違いないが。

 まあともかく、おかげで次の補給での支払いも大丈夫とわかった。

 クィントス777(スリー・セヴン)までは四十八光年。

 スウィングバイを利用しないし、今度のワープはレンタシップの燃料タンクではいっぱいいっぱいの消費量となるのだ。

 ステーションを出て、ワープアウトゾーンである〈灯台〉から離れ、徐々に加速する。カウンターをセットしようとしたら、エラーが示された。

「なんでだ?」

 ひとりごとは単独航行者にはつきものの現象だ。

「座標は、合ってる。突入ベクトルは……関係ないし、なんだァ? 時計? 時空同調設定に不正があります? 不正ってのは、なんだよ? 感じ悪いコトバだぜ。アポロニア暦じゃイヤなのかよ。西暦か? あっ、しかも日付と時間までずれちまってるじゃねぇか。わかった、オート修正していいから」

 機械を相手に、マジでぼやく。音声での返事はないが、グリーン灯と反応内容が処理の正確さを伝えてくる。

「……(サブ)エンジンから(メイン)エンジンへの切り替え完了っと。そんで、あと二時間加速な。クィントスで少し仮眠して……」

 六時間か八時間後には、アポロニアのあるローレル恒星系だ。〈灯台〉で燃料を入れて衛星軌道のステーションに移動、アポロニアに降りて、ヘリオスのルナポリスへ……。

 ローレル星域に入ってからのほうが時間がかかる。

 まったくじれったい。

 クィントスのお土産は何にしよう。お菓子を二箱買っているから、食べものじゃないほうがいいだろうか。彼女は何だって喜んでくれるだろうけど。

 ああ、クィントスのスペルを入れまちがえた! 検索再開、クィントス777の産業を表示せよ──。

 エフゲニーの未来は夢と希望に満ちあふれていた。

 アポロニア上空の宇宙ステーションに着くまでは。




 違和感はローレルの〈灯台〉からあった。

 星系内を移動する燃料を補給した際に、〈灯台〉への移乗を断られたのだ。精算機が故障中とのことで、後日、請求書をまわすからと送り出される。

 なんとなく釈然としない。

 そして宇宙ステーションで繋留を指定されたスポットは、いちばん外れで……レンタシップが入った直後に、隔壁が形成された。

 宇宙船ごと閉じこめられたのだ!

「……理由を説明してくれるよな?」

 地球全権大使の威信にかけて、理性的にふるまおうとした。

 まさかいまさら、地球とアポロニアで星間戦争が起こりました、ということはないだろう。両方とも銀河連邦に加盟している惑星国家なのだし、そんな徴候はぜんぜんなかった。もし仮にそうだとしても、いやしくも自分は特命全権大使なのだ。不当に拘束するのは銀河協定に違反する。

 では、休息のついでに食事をとったクィントス777で食中毒でも発生したのだろうか。それとも、伝染病?

 どちらでもなかった。

 ずっと交信していた管制官が丁寧に尋ねる。

『エフゲニー・ティラーデス大使、ご本人でいらっしゃいますね?』

「ああ。言っとくけど、俺は、アポロニアに不利になるようなことをするつもりはないし、いまのところ頭痛とか吐き気とかは感じてないぞ。熱も平熱だ」

『……本人だ。まちがいない』

 誰かが言うのが聞こえた。聞き覚えのある声だ。

『お姿を拝見したいのですが』

 再び、管制官の声が言った。

「? このタイプの船じゃ映像通信装置は装備できないんだ。無理だな」

『あっああ、そうでしたね』

 そこで先方は通信回線を閉じて相談しだしたらしい。しばし、彼は放置された。

『……ティラーデス大使』

「なんだ」

『気密室への通路をブロックしました。そちらへお入りいただけますか』

「いやだって言えないんだろ? いいぜ。武器になりそうなものは持ってないけど、他にも何か持ってっちゃいけないものは、あるかい?」

『できれば、身ひとつでお願いいたします。貴重品やパスポート、身分証明書の携行はかまいませんが、それ以外は船に残してください』

「えーっと、お土産のお菓子とかあるんだけど」

『そ、それは……地球で、お買い求めになったものですか?』

「いや、アルファケンタウリとクィントス777」

『……申しわけありませんが、置いていってください』

 心なしか、管制官の声音に安堵の色が感じられた。

「わかったよ」

 エフゲニーは宇宙船の機能をすべて停止させる。

 隔壁の内部から通路全体が気密されているのを確認して、船外に出た。

 点灯する案内に従って指示された場所へ向かう。

 そこは、二重にシールドされた透明なガラス張りの部屋になっていた。空気清浄装置のエアの洗礼を受けて入る。

 ガラスの向こうに人影が見えた。

 ──面通(めんとお)し?

 なぜ、そんなことをする必要があるのだろう? 不審に思いつつ、近づく。スーツ姿の恰幅のよい男が、ガラスに張りつかんばかりにしてこちらをのぞきこんでくる。

「……ハムイのおじさん?」


 その特徴的な、愛すべき()()()()を、見知っていた。


 何時間か前に別れた友人の父親である。

「お久しぶりです、おじさん。アポロニアには視察で? さっきハウザーに会いましたよ。あ、俺、今度、アポロニアの駐大使になったんでよろし、く……」

 エフゲニーもまたガラスに手をつき、勢いこんで話しかけた。が、なんだか妙な感じがして、ふっと口をつぐむ。

『……エフゲニー』

 天井のスピーカーから声が聞こえた。さきほども聞いた声だ。

「おじさん……?」

 こちらの声も向こう側に通じているのだろう。男性は悲しそうに首を横に振った。

「違う、よなぁ。あんた、よく似てるけどレン・ハムイ氏じゃない」

 兄弟とか親戚といった似方だが、そういう筋合いの人がこんなに熱情的に出迎えてくれるなんて、非常識だろう。

『エフゲニー、わたしは、いまの駐アポロニア大使です。ハウザー・ハムイだよ』

「ハウザー? そんなはず、ねぇって。からかっちゃいけないぜ、おっさん」

 即決で否定した。

 ハウザーは自分と同い年なのだ。こんなおじさんじゃ、ない。ほんの半日前に会ったばかりだ。騙そうったって、そうはいかない。

 それなのに彼の目は、男性から大切な友である証拠を見つけ出そうとしていた。

『そう思う気持ちはわかる。だが、信じてほしい。きみは木星でスウィングバイ・アクセルに失敗して行方不明になった。それできみのお父さんが僕を後任に推挙してくれたんだ。わたしが赴任して今年で二十年目になるよ、エフゲニー・ティラーデス・フォース』

「フォース……!」

 愕然とした。

 その異名だけで、彼には充分な説明だった。

「ゆ……行方不明だなんて、婉曲に言わなくてもいい。死んだと思われていたんだな」

 だから地球の口座は解約されたのだ。そして、アポロニアの口座のあの大金は……赴任途中に死亡した公務員の家族への労災弔慰金だ。

 そんな金を、恵利奈が使うわけがない。

 恵利奈はいまも、自分を待っている!

「俺……行かなきゃ」

『エフゲニー?』

 うれし泣きの涙にうるむ目で、ハウザーが見つめる。

「はやく、行かなきゃ。恵利奈が待ってるんだ」

『それは無理だよ、エフゲニー。検疫と健康診査がある。これをクリアしないときみを隔離状態から出すことはできないんだ』

「そんなもん! 俺はまた、法定伝染病とかでひっかかったのかと思ったぜ。そうじゃないんなら、問題ない。俺はどこも悪くない。健康だ」

『今年四十三歳になるのにその姿でかい?』

「そんなもん! 〈Ⅲ世(サード)〉の息子の〈Ⅳ世(フォース)〉で通しゃ、いいじゃねぇか。便利なあだ名で助かるぜ」

『宇宙事故調査委員会と宇宙工学物理学研究所の事情聴取もある。いきなり身体がどっと老化するかもしれないんだ。まず一ヵ月は隔離で経過観察だよ』

 反射的に、エフゲニーは逃走経路を求めてあたりを見まわす。

『二十年もいなかったんだ。いまさら一ヵ月くらい、どうだというんだ。事情聴取さえきちんとしておけば、〈時間比例の法則〉がなぜ破られたのか、しつこく実験につきあわされることもないだろう』

 最初のワープだ。

 彼の過ごした時間は五分十五秒だった。

 ところが世界ではその二百年万倍の時間が経過していたのだ。

『アルファケンタウリから旧型のレンタシップの問い合わせがなかったら、きみはそのまま、ヘリオス市に降りられたかもしれないね。でも、間に合ってよかったよ。身体の異常には、気をつけないといけないから』

 やさしい、人のよさは昔のままのハウザーだった。

 幼なじみのために、彼は譲歩した。

「隔離するのは、アポロニアが見える部屋にしてくれ」

『エフゲニー……』

「うん?」

『また会えて、うれしいよ』

「……俺もだ、ハウザー」

 それだけは本心から言えた。




 咲王(さきおう)辰子(たつこ)は、きびきびとした歩調で先頭を行く。その後ろを歩く新任大使が、いくら若くてハンサムで魅力的な風貌でも、この両者間にラヴロマンスを勘ぐる記者などいない。

 たまたま、同じエレベーターに乗っていたのだという顔でさらにそのあとに続き、リュイはルオの視線をさぐった。

 一行はホテルの玄関に向かっている。

 別の車に乗ってしまえば、自分とショウは計画どおりに帰ることが可能だ。

 ルオはエスメラルダの姿よりはいまのほうが正視できるらしく、リュイがサングラスを向けても目をそらさなかった。そっとあごを引くと軽くうなずいて応える。不倶戴天の敵とはいえ、共同戦線を張る相手としては不足のない男だ。

 正面には咲王家のリムジンがつけられている。それをスルーして後方のタクシーをつかまえようと、リュイはショウの肩を抱いて足を速めた。

「おや」

 リムジンに乗りこもうとしていた辰子が見とがめる。

「あのチンピラは、あなたの連れではなかったのですか?」

「チンピラ?」

 フォースとルオとショウの視線がリュイに集中した。実の祖母にチンピラ呼ばわりされた孫娘は、思わず立ち止まり、全身をわななかせている。

 それを見て、フォースは緊張を解いた表情になった。あどけないほどに嬉々としたいい笑顔だ。

「ええ、私の連れです。まだ帰っちゃだめだよ、緑惟(りい)。きみとはもっと、ちゃんと、話したいんだ」

「わたしはっ!」

 振り返ったリュイは、ルオの顔色で状況が変わってしまったことを知った。辰子が同席を望んでいるからには、解放は許されないのだ。尻尾を巻いて逃げ出そうとしていると思われるのも、いやだ。

「……遅くならないうちにこのひとを帰したいのだが」

「あとできちんと送ってあげます。なんなら、私の家に泊まってもいいでしょう。あなたがたとは……長い話をすることになりそうだからね。(あまね)もまじえて」

 ほとほと、老獪な女性である。彼女はリュイの正体をしっていながら、チンピラと呼んだのだ。根拠はないが確信できた。ひょっとしたら、ショウが女装なのだということまで、看破しているのではなかろうか。

「……あなたは、緑惟というのだね」

 リムジンの中で、辰子はそう言ったきり口を開かなかった。

 重苦しい沈黙を仕切りガラスごしに感じながら、助手席でルオは必死に東尽(とうじん)へのメールを打ちこんでいた。時間稼ぎにもならないが、屋敷にリムジンが到着するまでのあいだに覚悟はできる。美しい忠誠心、あるいは友情であった。

 閑静な高級住宅地をエコロジティックにリムジンは走り抜け、前庭に噴水のある洋館の前で停車した。咲王家本宅だ。

 自分でドアを開けて車から降りると、辰子は矍鑠(かくしゃく)と石段を上って玄関に入っていった。

「普!」

 叱りつける勢いで、叫ぶ。

「……お帰りなさい、会長」

 ビジネススーツに着替えた東尽が二階から下りてきた。慣れているのか、辰子の奮迅ぶりにすくむ気色(けしき)はない。

「やあ、普」

 愛嬌たっぷりのエフゲニーの挨拶に、ぴくりと頬がひきつる。が──。

「これは大使、夜分にご足労、いたみいります」

 平静顔で説明を求めるように義母を見た。

「ああそうだね。初対面じゃないから、紹介はいらないね。ほかでもない、この地球大使のティラーデスさんは私に何か話があるそうで。どうせならおまえにも一緒に聞いてもらおうと思ってね」

 できれば本人たちだけで完結していただきたいとは、言えなかった。

「そちらは?」

 知っているくせにとぼけてみせる。すごい神経だ。

「こんばんは、東尽さん?」

 リュイは未知とも既知ともとれる言葉をつかった。

「こんばんは」

 東尽も慎重に返す。

「わたしは、咲王緑惟。こちらはショウ。大使に便乗して、寄せていただきました」

 自分の名前が出た瞬間、ショウは心臓が口から飛び出すんじゃないかと思った。そのくらい、どきどきしている。

 この場から離れたいわけではない。 

 こわいもの見たさではないが、このあとどうなるのかしっかり見ていたい。彼よりも多くの修羅場をかいくぐってきたルオは、とっとと戦線離脱を決めこんだ。

 彼らが応接室に入る際に、さりげなく姿を消している。呼ばれればすぐに来られるところにいるのだろうが。

 これでもう、誰がうっかり名前を呼んでも不自然ではない。自分たちがなぜ、ここに来たのかも東尽に説明できている。リュイの機知だ。

 部屋に入るなり辰子は言った。

「咲王緑惟? あなたの名前にはもうひとつ、ティラーデスという名も入るのではないのかい?」

「いいえ」

 サングラスをはずして、緑の瞳でリュイは辰子を見た。

 そっくりな顔をしているのに、眼の色だけは恵利奈にはなかった闘争心に満ちている。そのことに、なぜか辰子は満足していた。

「では、そうならなかった理由を、そこの男に訊くといいでしょう。彼が私に話したいことがあると言ったのも、そのことでしょうから」

 一人掛けのソファーに辰子は腰を据えた。身振りで勧めるのに従い、応接セットの右列にリュイとショウ、左列に大使が座る。東尽は立っていた。

 唐突にエフゲニーは切り出した。

「きちんと就職してから改めて結婚の申しこみに来るつもりでした。あなたに、納得して婚姻届にサインしていただきたかったから。だから……すみません! 間に合いませんでした。事故りました。恵利奈を待たせたまま、死なせてしまいました」

 アポロニアの法律では結婚は十七歳からできるが、未成年のうちは、保護責任者の同意が必要となる。公式な届を出さない事実婚も普及しているが、最愛のひとを内縁の妻のままにしておくなど、エフゲニーには我慢できないことだった。成人となる二十一歳を待ってもよかったが、彼女のために、彼は辰子の承認がほしかった。

「どういうことだ?」

「つまり、駆け落ちした恵利奈とサードが婚姻届を出す前にサードが死んだから、そのあと生まれた子供は彼女の子供としてしか登録されないってことだろ? それで名前も咲王なんとか」

「それをなんでフォースがあやまるんだ?」

「いや、だって、彼はその、サードの子供だから?」

「サードは地球で結婚していたのか? 恵利奈と結婚しようとしていたのに? フォースは前の奥さんとの子供? いや、そうじゃないな」

 ショウと話しこむリュイを、エフゲニーは見つめていた。

 その深いまなざしの色に、不意にリュイは了悟した。

「おまえが、サードなのか?」

「そうだよ、緑惟」

 直截に、認める。

「だって、そんな? リュイといくつも離れてないのに?」

「事故ったって言ったろ? 二十年前、ワープしたら出てきたのは一ヵ月前のアルファケンタウリだった。年をとらないなんておかしいから、いまはフォースって名乗ってるんだ。俺はきみの父親だ」

「おまえが……」

 拳を固く握りこんだが、リュイは自分にそれをふるう気がないらしいと心づく。

 荒れくるう感情に支配されてはいないのだ。

 どういうわけだか、頭の中を〈一石二鳥〉〈一挙両得〉〈円満解決〉〈一触即発〉という言葉がリフレインしている。

 フォースはサード。

 一発殴れば恨みに思っていた対象に全部、報いることができるのだ。もともとはサードの代わりをフォースにさせるつもりだった。カエサルのものはカエサルへ、ではないが、これで晴れて正しい相手に報復できるということだ。

 だが、彼は恵利奈を捨てたのではなかった。その愛を裏切ってもいない。

 すべて不可抗力だった。

 情状酌量の余地は、ある。

「……帰る」

 やおら席を立ったリュイを、辰子は止めなかった。

「あっ」

 ここで置き去られてはたまらない。ショウはすぐに追った。

「……ずいぶん、クールな子だ。パパと呼んでくれなかった」

「送らせてきます」

 おちゃらけたエフゲニーを無視して東尽は辰子に言うと、応接室を出ていった。

「一応はそれなりに、事情をのみこんだようだわね。あなたを非難しなかった。ホテルではあんなにも殺伐とした気をはらんでいたのに」

「気づいていましたか」

 さすがは女怪。洞察力は海千山千の経験に裏打ちされている。

「最悪、逆上して流血騒ぎになっても大丈夫なようにうちへ来させたけれど、杞憂でした。初めて会った私にさえ、あの子は牙を()かなかった」

「初めて?」

「恵利奈はやさしい姿に似ず、あれで強情な娘だった。ビル掃除やらお弁当工場やらで働いて緑惟を育てると言って……ここには戻ろうとしませんでした。もう少し生きていてくれたなら、あなたとまた会えたのにねぇ」

 いまさら言っても、仕方のないことだ。

「それでも……あなたが生きていてくれてよかったと、どこか天のいいところからこちらを見て喜んでいるのでしょうね」

「咲王夫人……」

 まさかこのひとから、こんなにあたたかい言葉を聞くことがあろうとは……!

「婚姻届のこと、手をまわしてあげられなくてすまないと思っていますよ。弔慰金のことではティラーデス氏が、法的な手続きをしてくださいましたが」

 いまもなお地球で評議員をしている彼の父親は、恵利奈のことをエフゲニーの妻として認めてくれたのだ。感謝の気持ちが胸にあふれる。

 なんと大きな愛情に、自分は支えられているのだろう。

 知らずしらず、守られ、助けられてきた。

 なんと、幸せだったのか──。

 ただ、いまはそばに恵利奈がいない。そのことに彼は涙した。




「リュイ、ちょっと待て、おい」

 ルオは広い玄関ホールを突破しようとするリュイをやっとのことで呼び止めた。小走りにあとを追っていたショウのほうが、先に足を止め、リュイを待つ。

 手にしていた衣類をショウに持たせて、ルオはリュイに何かの容器を突き出した。

「クレンジングクリーム?」

 リューズ化粧品のハイグレード商品だ。エスメラルダも使っている。

「てめぇ、ひとりでさっさと先に帰ろうとすんじゃねえ。ショウにその格好で帰れっていうのか?」

 顔を隠せばアイリンで通りそうだが、女装姿で中華街(チャイナタウン)へ戻るのはボスにはつらかろうという武士の情けなのだ(ふたりとも武士ではないが)。ゲストルーム用のをメイドに持ってこさせたのはいいが、使い方をルオは知らない。

「顔が洗える部屋が借りれるか?」

 クレンジングを受け取ろうとしたとき、背後に東尽が追いついてきた。

「それなら、こちらへどうぞ」

 二階の奥へと案内する。

 一見したところ、ゲストルームではない。特にかわいらしい装飾や色づかいではないが、あきらかに女性の部屋として使われていたスイート。恵利奈の私室だった。

 ウィッグをとり、頭がすっきりしたショウの顔にクリームをなじませながら、リュイはドレッサーに置かれたものや本棚や机の上を見ていた。

「それ、ルオの服じゃないよな」

 ベッドの上を見て、どうでもいいことを口にする。ふつうのTシャツとジーンズだが、ルオのサイズではない。東尽のサイズでもない。

「ウェンのを借りてきた」

 クレンジング作業を見守っていたというより、監視していたルオである。

「ウェン?」

 問い返したリュイに、つい、つっこむ。

「なんだよ、覚えてないのか? 俺の弟。小学校でずっと隣の席だったろうが」

「小学校? あ──あ、あいつ? そういや、ルオ・ウェンって名前だったな。弟? でも、ぜんぜん似てないな。読書好きなおとなしいやつだったぜ」

 ついでにいうと「女の子みたいにかわいらしかった」をリュイは省いた。これとあれが同じ遺伝子で出来ているとは……。

「いまでもそうだ。真面目に大学へ行ってるよ」

「へー、近くに住んでるのか?」

「ここんちの使用人棟。母ちゃんがコックに雇われてるから、俺以外の家族もみんなそこにいる」

「ちょ、リュイ! 鼻に入れんなよ!」

「仕方ねぇだろ、鼻の穴は閉じねぇんだから。自分でやったって入るんだ。人にしてもらって文句たれんな! も、こんくらいでいっかー」

 そうは言っても、ティッシュで拭き取る手つきはソフトだ。

「洗ってこい。二十回はすすげよ」

 べたべたになった手を拭いて洗面所へのドアを示すと、忘れずに着替えを持ってショウはそちらへ行った。

「……東尽」

 クレンジングクリームに蓋を閉め、ドレッサーの上に置くと、リュイは黙ったままの男に話しかけた。

「これ、もらってもいいか?」

 ドレッサーから取り上げた写真立てには、振袖を着た恵利奈の写真。呉服商で写したスナップだった。

 さっきまでのリュイとよく似ている。

 しかし、リュイがそれを望んだ理由は感傷からではない。一緒に写っていた恵利奈の袖にしがみついて立っている幼子の姿を、アイリンに見せたかったのだ。

「かまいませんが」

 幼稚園児のスモックに半ズボン、いとけない笑顔には面影が、ある。

 大徳寺彦左衛門(推定年齢三歳)であった。




 それからのリュイはずっと中華街にいた。東尽にもエフゲニーにも辰子にも、会わなかった。三食を麒麟飯店でとり、アイリンのお買い物につきあい、女の子限定のパジャマパーティーにも参加した。

 相変わらず、もてた。

 古なじみのきれいなお姉さんたちばかりか、年下のキュートガールたちにも迫られる。それでも、なんとか鉄壁のディフェンスでエスメラルダのキャリアを暴露せずにしのいでいた。

 アイリンは毎晩、ジャンクⅢに泊まった。ショウや彦左ともあれ以来だ。

 恵利奈がいないだけの、かつての日常だった。

 リュイの休暇、五日目の夜に、ルオがやってきた。

「おまえなあ、携帯の電源ぐらい入れとけよな」

 顔を見るなり不便をなじる。

 番号を教えた覚えはないが、赤竜コンツェルンの力をもってすれば造作もない調べだ。

「アイリンにかければいいだろうが」

「ごめん、リュイ。あたし、携帯って好きじゃなくて」

 意外にも持っていないのだ。まあ、窓から顔を出して叫べばたいていの用は伝わる中華街では、持たないほうが経済的ではある。

 それで、わざわざ足を運んだ、と。

「で?」

 探るように室内を眺めまわすルオに、水を向ける。

「大使は? 来ていないのか?」

「タイシ?」

 初めて耳にした単語のようにリュイは繰り返す。

「大使って、あのへらへら野郎のことか? 来てない、というか、なんでここに来ると思うんだ? 来てないぞ。ばあさんの家で会ったきりだ」

「そうだよな……」

 つぶやいて、携帯電話を開く。

「もしもし……ここにはいません。あれから、会っていないそうです。……はい」

 どうやら、東尽が彼を捜しているらしい。

 ルオにここまで来させるとは、尋常ではない。

「アイリン、俺、急いでんだ。また、ゆっくり会おう」

 めずらしくもつれない態度に、リュイは深刻なものを感じた。

「あいつ、いなくなったのか?」

 失踪か誘拐か──? 

 逃げたのなら、今度こそ、ぶっとばしてやると思った。






── ミッシング ───────





 


カバは鼻に栓?があるらしいです。


顔を洗っているときとか、勢い余って指がズポっと入って悶絶したことないですか? その、指が突き当たってとても痛い、鼻血が出やすいとこ、キーゼルバッハというらしいです。


使用Photo:ReiTa






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