9話 白いイベリスの鉢植え
異世界で4日目の早朝、まだ夜明けまではだいぶ時間がある。
そんな薄暗い病室でくりくりとした紅い瞳がこちらを見ていることに、ベッドに突っ伏したままの状態で気づく。寝ぼけた頭を少し振りながらゆっくりと上げて、長くて白い髪を枕にした藍川さんの顔を覗き込む。
「遅くまで起きていたから、まだ眠くないか?」
「昨晩はいっぱいお話しができて、楽しかったです。前はあんなにたくさんお話をすると、声が擦れたり疲れたりしたのだけれど全然平気でした」
朝も早いというのに、気持ちのいい鈴をコロがすような声が耳をうつ。体力が人並みになってくれば、【健康】スキルが自動回復して体調も良くなってくるのかもしれない。
まだ薄暗いので少し顔を近づけ過ぎたからか、白いシーツをかわいい小さな鼻先まで持ってきて小柄な顔を半分を隠してしまった。
そのときチラッと見えたが、まだ唇が乾くようで割れてはいなかったが、カサカサして荒れていたような気がしたんだが。
そこで、いつものように慣れた手つきで保湿成分が高い潤いリップクリームを錬成する。
「ほら、唇がカサついて割れると痛いからな」
「……知ってます。クロセくんにはあんまり見られたくなかったのですが」
「これを塗ると溶けて、ぷるぷるになるから大丈夫だと思うぞ。しかもハチミツの保湿成分入りだ」
そう言って、ハンドソープで綺麗に手を洗ってから、小指でリップクリームのジェリーをすくうと、少し開けられた藍川さんの小さな唇にゆっくりと伸ばすように温めながら塗りつけていく。
するとほんのり桜色をした、うるうるな唇ができあがり、それを小さなコンパクトミラーをついでに錬成して見せてあげる。
「わあ……」
「ほら、これでだいぶ楽になると思うぞ。スティックタイプも置いておくから、気になったら自分で塗れるか?」
俺が持ったコンパクトミラーを覗き込んで、少しグロスでつやつやした唇をキスをするような仕草をし、少女はうれしそうにその唇の端をわずかに上げて微笑む。
「クロセくん、ありがとうございます。ちょっと気になっていたので助かりました」
「そうか、ジェリータイプの方は自分では塗りにくいだろうから言うんだぞ」
「はい」
そう答えてくすぐったそうに紅い瞳を細める少女の頭を思わずなでる、なでりなでり。
「えへへ」
さっきより少しづつ空が明るくなってきた病室のベッドに座る少女が、その年頃のままのように、わずかに艶のでた唇で、こちらを見上げるように微笑む。
それから瑠璃色となった空の下、病室の外に出て今朝も剣術の朝練を始める。
昨日と違うのは、藍川さんが窓越しに静かな病室のベッドの上から話しかけてくることか。
「昨日お話しした、天使さんが【収納】に入れてくれた鉢植え――『白いイベリスの鉢植え』なんですが、この病室で育てても良いでしょうか」
「ああ、いいんじゃないか? 水はコップにでも汲んでおけばいいし」
「そうですか! 春先に妹にもらった物なので、大切に育てたいんです」
「でも、確かイベリスだと来年にならないと咲かないんじゃ……」
確かイベリスは春から初夏にかけて花を咲かせるはずだ。そう思って聞くと、妹のことを思い出したのか少し悲しそうに微笑みながら、【収納】から取り出して膝の上に置いた『白いイベリスの鉢植え』に愛おしそうに目を向ける。
「えへへ。普通、一般的には入院のお見舞いには鉢植えは避けるものなんですが、……私がこの夏までと言われていたので。
妹の詩織ちゃんが、来年の春にもう一度この白いイベリスが綺麗な花を咲かせたところを見れますように、と願いをかけて買ってくれたものなんです。
今年はもうお花をつけていませんが、キャンディータフトとも言われる、砂糖菓子のようなとっても可愛いお花を咲かせるんですよ」
「そうか……、それじゃ大切に育てないとな」
「ええ」
素振りを続けていた片手剣を正眼に構えて止めると、朝練は一時中断する。
「今、鉢植えを明るい窓際に置くための机とコップを用意するから、少し待ってるんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
『白いイベリスの鉢植え』を両手で大事そうに抱えて、まぶしそうに紅い瞳を細めて薄っすらと微笑む白い髪の少女。
この世界で来年の春に、再び美しい砂糖菓子のような白い花を咲かせますようにと、願いを込めて朝風の中で微笑む。
今朝のお粥は溶き卵だけじゃなく、小さく刻んだ野菜と磨り潰した肉を、くたくたになるまで煮込んで入れてある。見た目は雑炊だな。栄養は相当レベルアップしている。
しかし、カルシウムとかビタミンとか、今の藍川さんに必要そうな成分を取るにはどうしたらいいんだろうか……煮干しとか柑橘系の果物とか探すか。いや、流石にお年頃の女子高校生に煮干しを食えというのは……どうなんだろうか。
窓とベットの間の小さな机に置かれた『白いイベリスの鉢植え』に朝日が差し込むのを見ながら、ふーふーと冷ましてから、あーんと口に運ぶ。
「おいしいです」
「よかった、だいぶ食事も取れるようになってきているようだから、これから色々な栄養が必要になるんだが……藍川さん、煮干しって食べる?」
「……え?」
「いや、なんでもない」
きょとんとした顔の藍川さんをベッドに残し、ゆっくりとした朝食を終えて食器類の片づけをしていると、寝ぼけ眼のアリスがやって来て昨晩の話を聞くなりプンスカ怒り出す。
「何で、ハクローが異世界で最初のルリの友達なのよ」
「誰が最初でも別にいいだろ?」
「ダメよ、ルリの初めては私がもらうのよ!」
「ぽっ」
当の藍川さんまで一緒になって腰の前で手を組み、てれてれし始めている。いいのか、それで。
「何か話がずれて来ているぞ」
「これは引き篭もりで、ぼっちな体質の弊害ね。いかなる治癒魔法も効かないわ」
「何だそれは。しかもアリスが自分で言ってどうする」
「ほっときなさいよ。とにかく私とルリは、とっくに名前で呼び合う友達よ」
「そうだったんですか? わーい!」
「よかったな藍川さん、これで友達が二人だぞ」
えへへー、と少し首を傾けて長い白髪をさらさらと肩から胸に垂らしながら、嬉しそうに微笑む少女。
「ハクローも友達らしく、苗字じゃなくて名前で呼びなさいよ」
「えー」
「は! クロセくん、ルリと呼んでください」
ベッドに座ったまま祈るように両手を握り、藍川さんがすがるような紅い瞳で見上げる。友達が二人になって、チャレンジ精神が出て来たらしい。
「……ルリ」
おっと、ボソッとした暗い声になってしまった。
「何でルリのときだけ、照れるのよ」
「いやぁ……別に」
「わ、私は……まだちょっと恥ずかしいので、やっぱり呼び方はクロセくんで」
異世界での偉大な精神的チャレンジには失敗したらしいが、そんなルリも何だか薄く桃色に頬を染めて、てれてれくねくねと初々しい。
どうも、友達とはいえ男に名前で呼ばれただけで、十分にはずかしいようだ。そう言う俺も同じようなもんだが、男である俺の場合は傍から見ればキモイだけなんだろう。
う……ほら、言わんこっちゃない。アリスが唇を尖らせて、こっちを睨んでるぞ。
「やっぱり、何かむかつくわね。あ、そういえば忘れてた。今日は昼から城内で、【勇者】の召喚成功と歓迎の晩餐会のための衣装合せや準備があるらしいから、冒険者としてのクエストはパスね」
「りょーかい。俺は出なくていいんだろ?」
「ルリをお願い」
「おっけー。そっちはアリスに任せた」
アリスが城内に向かっていなくなると、昨晩、気になっていたことを思い出して、出かける前のステータスチェックをする。
名前;ハクロー・クロセ(黒瀬白狼)
人種;人族
性別;男
年齢;15才
レベル;Lv6
職業;【サーファー】
スキル;【解析Lv2】(UP!)【時空収納Lv1】【時空錬金Lv2】(UP!)【剣術Lv1】【身体強化Lv1】(New!)
ユニークスキル;【波魔法Lv1】(New!)
オリジナルスペル;【ソナー(探査)】(New!)【ビーチフラッグ(加速)】(New!)
守護;【女神■■■■■■■の加護】【ルリの友達】(New!)
おお、【ルリの友達】ってのが増えてる。ためしにLv2にレベルアップしていた【解析】を使ってみる。
<守護【ルリの友達】>;経験値取得1.1倍化。スキル取得に必要な経験値1/1.1倍化。倍率は友達であるルリの【友達】スキルレベルによる。パーティー全体で獲得した経験値をメンバー全員で分割せずに各人で全て取得できる。
なんだこれは、ルリのユニークスキル【友達Lv1】が『守護』を与えているのか。
それにしてもぶっ壊れスキルじゃないのかこれ。特にパーティーで取得した経験値をメンバーで頭割りでもなく、止めを刺したメンバーでもなく、全員に満額を取得させるってことなんだろうか。
しかし、これは現状で経験値を得ることが難しい、ルリにとって文字通りの『福音』になるはずだ。
ステータス表示の【ルリの友達】にタッチしてみると、普段の戦闘中では注意していないと聞き逃すことの多いインフォメーションが頭の中に流れる。
――『ルリ・アイカワ』をパーティーメンバーに申請しますか? <はい/いいえ>
眼前の中空にスケルトン表示されている<はい>を選択すると、
「うひゃ!」
くすぐったそうに、ベッドのルリが紅い瞳を丸くする。
「パーティーメンバーに登録する<はい>を選んでくれ」
「びっくりしました。えーと、はい、選びました」
二人がいる場所の距離とかも関係するんだろうか。しまったな、アリスも登録しておくんだった。
「じゃあ、早めに上がるようにして、帰りに何か買って来るから」
「はい、気をつけて。クロセくん、いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
『おうちにかえろう』……ふと、なつかしい言葉を思い出した気がして、その理由が分からないまま、紅い瞳を細めて薄く微笑むルリの長い白髪をなでてから冒険者ギルドへと向かう。
病室の扉を出るとき振り返ると、ベッドの上でシーツに置いた手をひらひらと振るルリの姿がそこにあった。