第八章 反転
青年は、三日間、ほとんど眠らなかった。
眠れなかったのか、眠るのが惜しかったのか、自分でもよくわからなかった。
動画を見ていると、時間が消えた。
奇跡の動画。自分の顔をした預言者。雲の上を歩く青年。病人に手をかざす青年。荒れた海に向かって腕を広げる青年。
どれも偽物だった。
わかっている。
生成AIが作った映像だ。自分はそんな場所へ行ったこともないし、誰かの病気を治したこともない。
それでも、画面の中の自分は、現実の自分より多くの場所にいた。
多くの人間に見つめられていた。
そして、何よりも――迷っていなかった。
青年は自分の動画を撮った。
「俺は神じゃありません」
停止。
削除。
もう一度、撮る。
「俺は神じゃありません」
停止。
削除。
三度目。
「俺が神じゃないって、誰が決めるんですか?」
青年は録画を止めた。
しばらく、画面を見つめていた。
今のは違う。
こんなことを言いたかったんじゃない。
削除しようとした指が止まる。
投稿画面が開いていた。
タイトルは空欄。
青年は投稿ボタンを押した。
すぐに後悔した。
取り消そうとした。
だが、再生数がつき始めていた。
コメントが流れ込んでくる。
『彼はついに認めた』
『自分が何者なのか、わかってしまったんだ』
『もう、誰にも止められない』
青年は画面を閉じた。
部屋を見た。
散らかった服。空のカップ麺。テーブルの上のペットボトル。
何ひとつ変わっていない。
なのに、ひどく作り物めいて見えた。
青年は鏡の前に立った。
自分の顔を見た。
笑ってみる。
口角を上げ、目を細める。
動画の青年と同じ笑い方。
できた。
青年は鏡を見つめた。
もう一度、笑う。
鏡の中の青年も笑った。
今度は、鏡の中の顔のほうが自然に見えた。
青年は笑うのをやめた。
鏡の中の顔も、すぐに真顔に戻った。
何も起こらなかった。
青年は鏡に背を向けた。
スマートフォンを手に取る。
新しい動画が公開されていた。
投稿者は自分。
サムネイルには、自分の部屋が映っていた。
机の上にスマートフォン。
画面の中には、さらに小さな自分の部屋。
その中にも、スマートフォン。
青年は動画を開いた。
映像の中の部屋は、現実の部屋とよく似ていた。
だが、少しだけ違う。
机の位置。
椅子の向き。
壁にできた染み。
そして、窓の外。
そこには、見覚えのない建物が立っていた。
青年は窓を見た。
現実の窓の外には、いつもの建物があった。
動画に戻る。
画面の中の窓。
見知らぬ建物。
現実の窓。
いつもの建物。
青年は動画を一時停止した。
サムネイルの下に、短い字幕が表示されていた。
『あなたが本物だと思っているものは、何ですか?』
青年は動画を閉じた。
検索欄を開く。
「俺は神なのか」
検索結果は、宗教や哲学についての記事ばかりだった。
次に打つ。
「現実とは何か」
画面が文字で埋まった。
青年は読み始めた。
読み進めるうちに、どの説明も同じところへ戻ってくる気がした。
自分が見ているものを、どうやって自分の外側にある現実だと証明するのか。
自分以外の人間に意識があると、どうやって証明するのか。
青年は椅子から立ち上がった。
部屋の中央に立つ。
床を踏む。
痛みはない。
壁に触れる。
冷たい。
自分の頬をつねる。
痛かった。
「……本物だろ」
声に出す。
誰に向かって言ったのか、わからない。
青年はスマートフォンを見た。
画面の中の青年が、微笑んでいた。
「お前は俺なのか?」
返事はない。
「それとも、俺がお前なのか?」
動画の青年は、静かにこちらを見ていた。
青年は画面を指さした。
「俺は、ここにいる」
自分の胸を指さす。
「俺は、こっちにいる」
画面を指さす。
「……ここが現実なんだ」
言い終えたあと、部屋は静かだった。
青年はスマートフォンを置いた。
画面は暗くなった。
黒いガラスに、青年の顔が映っていた。
その顔は、ひどく疲れていた。
青年は目を閉じた。
そして、床に座り込んだ。
どれくらい、そうしていたのだろう。
次に目を開けたとき、部屋の明かりが消えていた。
スマートフォンだけが光っていた。
画面には、ひとつの通知。
『新しい動画が公開されました』
青年は、触れていない。
それでも、通知は表示されていた。
サムネイルには、白い部屋が映っていた。
窓はない。
机もない。
椅子だけが、部屋の中央に置かれている。
青年は画面を見つめた。
動画のタイトルはなかった。
再生ボタンを押す。
画面の中の椅子に、誰かが座っていた。
顔は見えない。
青年は息を止めた。
映像が、わずかに揺れた。
座っている人物が、ゆっくりと顔を上げた。
青年だった。
そこで映像が途切れた。
画面が暗くなった。
青年はスマートフォンを落とした。
床にぶつかった音がした。
その音だけが、部屋に残った。
神の遺伝子
第九章 こちら側の人間
目を覚ますと、天井が白かった。
青年はしばらく、その白さを見つめていた。
自分の部屋の天井ではない。
染みもない。照明器具も違う。天井の隅に、小さな黒いレンズがあった。
カメラ。
青年は上半身を起こした。
白い壁。白い床。そこにぞんざいに敷かれたマット。扉には小さな窓がある。トイレは剥き出しだが何故か正面の壁はマジックミラーだ。
窓の向こうは見えなかった。
「……どこだ、ここ」
声が、部屋の中で乾いて響いた。
青年は自分の手を見た。
指を曲げる。
開く。
手のひらをつねる。
痛い。
立ち上がり、壁に触れた。
冷たい。
床を踏んだ。
硬い。
どれも本物らしかった。
だが、青年にはもう、それだけでは足りなかった。
壁の上のカメラを見上げる。
黒いレンズが、こちらを向いていた。
「見てるのか?」
返事はない。
「おい」
青年はカメラに近づいた。
「誰が見てるんだよ」
沈黙。
青年は笑った。
乾いた、短い笑いだった。
「そうか。そういうことか」
自分の声が、妙に大きく聞こえた。
「ここは偽物なんだろ」
カメラは動かない。
「俺を試してるんだ。俺が本物だって気づくかどうか」
青年は部屋の中央に戻った。
白い壁を見回す。
「よくできてるよ。ほんとに」
床に手をついた。
「痛みもある。感触もある。全部、作れるんだろ?」
自分の腕をつねった。
顔をしかめる。
「こんなもん、証拠にならない」
カメラを見上げた。
「俺はわかったんだ」
声が大きくなった。
「ここは偽物だ!」
青年は立ち上がった。
「俺は神だ!」
言葉が白い部屋に反響した。
「お前らは哲学的ゾンビだ! 人間のふりをしてるだけだ! 意識なんかない!」
青年はカメラを指さした。
「俺だけが、本物なんだ!」
声が枯れた。
それでも青年は、しばらく何かを叫び続けた。
やがて、口を閉じた。
部屋は静かだった。
青年は床に座った。
両手を膝の上に置いた。
呼吸が落ち着いていく。
ふと、顔を上げた。
カメラが見えた。
青年はレンズを見つめた。
今度は、怒鳴らなかった。
ゆっくりと微笑んだ。
まるで、画面の中の自分のように。
その顔を、カメラは記録し続けていた。
*
夜。
どこかの部屋で、スマートフォンの画面が光った。
匿名のアカウントが、新しい動画を公開していた。
タイトルは、
『自分を神だと信じた男』
映像は、白い部屋を天井近くから映していた。
隅に座る青年。
壁を指さして叫ぶ青年。
そして、最後にカメラを見て微笑む青年。
動画の下で、再生数が増えていた。
コメントが流れる。
『怖すぎる』
『笑えない』
『この人、本当に大丈夫なのか』
少しして、新しいコメントがついた。
『でも、最後の顔を見た?』
その下に返信。
『何かに気づいてる』
スマートフォンを持つ手が、画面をスクロールした。
動画は繰り返し再生されていた。
青年が叫ぶ。
青年が座る。
青年が微笑む。
再生数が増える。
画面が切り替わった。
収益化のダッシュボード。
数字が表示されていた。
広告収益。
増加中。
スマートフォンを持つ手が止まった。
数字を確認する。
もう一度、確認する。
そして、画面の外で、誰かが笑った。
映像には映らなかった。
ただ、スマートフォンのガラスに、持ち主の顔の一部がぼんやりと反射していた。
画面の中では、青年が微笑み続けていた。
終




