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名も無き戦場  作者: 六花
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レイ編第十三話「暁光の月 七の日」

朝。


修道院を出た時、空気はまだ少し冷たかった。


昨夜の雨はすっかり止んでいる。


街道には湿った土の匂いが残り、空はゆっくりと晴れ始めていた。


レイは手綱を握りながら前を見つめる。


今日は商業都市へ向かう日だった。


店を持つために。


そのために必要なものを調べるために。


隣では航が静かに外を眺めている。


相変わらず言葉はほとんど通じない。


それでも、一週間も一緒にいると不思議と分かることがあった。


今の航は機嫌が悪いわけでも、困っているわけでもない。


ただ景色を見ている。


それだけだ。


レイは小さく笑った。


「今日は忙しくなるよ」


もちろん伝わらない。


それでも、なんとなく言ってみたかった。




街道を進む。


雨上がりの道は静かだった。


人通りは少なく、聞こえるのは車輪の音と馬の足音くらい。


その静けさを破るように、遠くで金属音が響いた。


レイはそちらへ目を向ける。


黒い集団が見えた。


傭兵だろう。


何かと戦っている。


雨の後は魔物が出やすい。


昔からそう言われていた。


本当かどうかは分からない。


けれど、討伐依頼が増えるのは事実だった。


レイは少しだけ様子を見る。


だが馬車を止めることはない。


今の自分にできることではなかった。


今日の目的は別にある。


航も同じ方向を見ていた。


何か考えているようだったが、やがて視線を戻す。


二人はそのまま街道を進んだ。




昼前。


商業都市へ到着する。


大きな門。


行き交う人々。


荷馬車。


商人。


旅人。


いつ訪れても賑やかな街だった。


レイは馬車を預けると、そのまま街の中へ向かう。


時間は限られている。


確認したいことは山ほどあった。


最初に向かったのは建築ギルドだった。


希望する建物の規模。


場所。


必要な設備。


職人。


資材。


説明を受けるたびに、紙の上へ数字が増えていく。


レイは黙って聞いていた。


途中から、笑うしかなくなった。


高い。


想像していたより遥かに高い。


建物一つ建てるだけで、何年分働けばいいのか分からない。


受け取った紙は薄いはずなのに、妙に重く感じられた。


次は商業ギルド。


登録。


営業許可。


保証金。


年会費。


必要な条件。


こちらも同じだった。


店を持つことは、思っていた以上に遠い。


話を聞き終える頃には、少し疲れていた。


その後も市場を回る。


商品の値段を調べる。


旅先で売れそうな物を確認する。


仕入れの計算をする。


本当なら楽しい時間のはずだった。


けれど今日は違う。


頭の片隅には、ずっと見積書の数字が残っていた。




夕方。


宿へ戻る。


航は静かだった。


街に来てからずっと周囲を見ている。


知らないものばかりなのだろう。


それでも文句は言わない。


弱音も吐かない。


レイは少しだけ感心していた。




夜。


部屋の机に紙を広げる。


建築ギルドの見積書。


商業ギルドの資料。


帳簿。


収支計算。


数字を追えば追うほど現実が見えてくる。


今の自分では無理だ。


そう思わざるを得なかった。


レイは小さく息を吐く。


夢を諦めたわけではない。


けれど、遠かった。


思っていたよりもずっと。


手が止まる。


視線だけが紙の上を彷徨う。


その時だった。


椅子が引かれる音がした。


顔を上げる。


航だった。


向かいではない。


少しだけ離れた隣の席。


何も言わない。


ただ座っただけ。


それだけだった。


レイは少し驚く。


そして、少しだけ笑った。


「ありがとう」


もちろん伝わらない。


それでも良かった。


不思議だった。


何も解決していない。


お金もない。


店も建てられない。


それでも、一人で帳簿を見ていた時より少しだけ気持ちが軽かった。


レイは見積書を丁寧に畳む。


捨てない。


まだ必要になる気がした。


その紙を荷物の中へしまう。


いつか。


きっと。


そう思いながら。


窓の外では、商業都市の灯りがまだ揺れていた。

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