レイ編第九話「暁光の月 六の日」
暁光の月 六の日
雨はまだ止んでいなかった。
だが、音は確実に弱くなっている。
屋根を叩く間隔が、わずかに伸びていく。
レイは廊下を歩いていた。
足音はほとんど響かない。
この修道院は、何度も訪れた場所だ。
正確には“修道院”というより、互助会が支援している滞留施設のひとつだった。
流転者が最初に落ち着く場所。
言葉を失った者が、最初に立ち止まる場所。
そこに、航がいる。
昨日よりも、その存在は明らかに変わっていた。
歩くことをやめない。
崩れない。
(問題ない)
理由ではない。
確信でもない。
ただ、そう感じるだけだった。
扉を開けると、航はすでに目を覚ましていた。
視線がこちらに向く。
「朝」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
レイは一拍だけ間を置き、空気を確かめるように同じ言葉を返す。
「朝」
航は小さく頷く。
まだ薄い反応。
それでも昨日より確実に届いている。
(進んでいる)
それは言葉の理解ではなく、関係の距離だった。
レイはそれ以上何も言わず、背を向ける。
食堂へ向かう。
背後から、航の足音がついてくる。
昨日より迷いが少ない。
それだけで十分だった。
食堂にはすでに子供達の声が満ちていた。
意味の分からない言葉が交差し、笑い声が混じる。
だが、それは混乱ではない。
生活の音だ。
レイは席を指す。
航はそこに座る。
木皿を置く。
湯気が立つ。
昨日と同じ流れ。
それでも、わずかに違うものがあった。
航の視線が、何かを待っている。
レイは短く告げる。
「食事」
航はそれを見て、少し遅れて繰り返す。
「食事」
音が揃う。
その瞬間、レイは理解する。
この男は理解していないのではない。
積み上げているだけだ。
子供の一人が航に何かを言う。
速い言葉。
崩れた音。
航には届かない。
それも想定内だった。
レイはその音をゆっくりと繰り返す。
「ナ・マ・エ」
航の動きが止まる。
(名前)
昨日結んだ線が、再び繋がる。
レイは自分の胸に手を当てる。
「レイ」
そして航を見る。
航も同じように胸に手を当てる。
わずかな迷いの後、音を出す。
「コウ」
正確かどうかは問題ではない。
伝わったかどうかだけが重要だった。
レイは小さく頷く。
(十分)
外ではまだ雨が降っている。
だが、この場所の中では確かに何かが変わり始めていた。
言葉ではない。
理解でもない。
ただ、“届く速度”だけが、少しずつ変わっていた。




