航編第十三話「暁光の月 七の日」
朝。
修道院を出たのは、まだ空が白み始めたばかりの時間だった。
雨上がりの空気は冷たく澄んでいる。
街道には、昨夜の雨が残した湿り気がまだ残っていた。
荷馬車は静かに進む。
周囲に人影は少ない。
その静けさの中で、遠くに見える街の輪郭だけが、少しずつ大きくなっていく。
航はそれを見つめていた。
(大きい)
最初に浮かんだ感想は、それだけだった。
建物が多い。
人がいる。
それだけしか分からない。
けれど、今まで通ってきた場所とは違うことだけは感じ取れた。
レイは前を向いたまま、馬車を進めている。
迷いのない動きだった。
きっと、何度もこういう場所へ来たことがあるのだろう。
航は何も聞かなかった。
聞くための言葉が、まだ足りなかった。
昼を過ぎた頃。
街へ向かう街道の先で、遠くから音が聞こえた。
金属がぶつかる音。
何かが動く音。
人の声。
航は顔を上げる。
遠くの開けた場所。
そこに、いくつかの黒い影が見えた。
何かと戦っているようだった。
魔物なのか。
それとも別の何かなのか。
航には分からない。
ただ、人が危険な何かと向き合っている。
それだけは理解できた。
レイも一度だけ、そちらへ視線を向ける。
しかし、すぐに前へ戻した。
止まらない。
航は少しだけ考える。
(行かない)
レイがそう判断したのだと、なんとなく分かった。
今は、関わる場所ではない。
航はそれ以上考えず、レイの後を追った。
街の門をくぐる。
その瞬間、世界の音が変わった。
人の声。
馬車の音。
物が動く音。
いくつもの音が重なり合い、街全体が動いているようだった。
航は周囲を見る。
(多い)
音も。
人も。
知らないものも。
けれど、以前のように頭の中が真っ白になることはなかった。
分からない。
それだけは、もう理解できている。
レイは人の流れの中を迷わず進んでいく。
航はその後ろを歩いた。
今の自分には、それしかできない。
街の中には、大きな建物がいくつもあった。
石と木で作られた建物。
広い入口。
多くの人が出入りしている場所。
航には、それが何なのか分からない。
ただ。
普通の家ではない。
それだけは分かった。
一つの建物の前で、レイが足を止める。
短く言葉を交わし、中へ入っていく。
航は外で待った。
しばらくして、レイが戻ってくる。
表情は少しだけ硬かった。
何かが上手くいかなかった。
それだけは、なんとなく分かる。
でも、理由は分からない。
その後も、レイはいくつかの建物を訪れた。
大きな建物。
立派な建物。
人が集まる建物。
航には、その違いが分からない。
ただ、レイが何かを確認していることだけは理解できた。
建物の中から出てくるたびに、レイは少し考えるような顔をする。
それを見るたびに、航は少しだけ気になった。
けれど、言葉がない。
聞くこともできない。
だから、ただ隣を歩いた。
夜。
宿に入る頃には、街の明かりが増えていた。
昼間よりも人の声は多い。
物を運ぶ音。
呼びかける声。
遠くから聞こえる笑い声。
航には、その全ての意味は分からない。
ただ。
この場所には、人が集まり、何かが動き続けている。
それだけは分かった。
部屋に入ると、レイは机へ向かった。
昼間受け取った紙を広げている。
そこには数字や記号が並んでいた。
航には読めない。
意味も分からない。
ただ、レイが真剣に見ていることだけは分かった。
しばらくして。
レイの手が止まる。
小さく息を吐いた。
疲れている。
航には、なぜかそれだけが分かった。
気付けば、航は椅子を引いていた。
レイの向かいではなく。
隣。
少しだけ距離を空けた場所。
何かを言うことはできない。
何かを解決することもできない。
それでも。
離れる理由もなかった。
レイが顔を上げる。
少し驚いたような表情。
そして、小さく笑った。
何と言ったのか。
航には分からない。
でも。
その声が、少しだけ柔らかくなったことは分かった。
航は何も言わず、そのまま座っていた。
今できることは、これだけだった。
夜の街は、まだ騒がしい。
人の声も。
馬車の音も。
遠くで続いている。
その中で。
二人の間には、言葉ではない時間が流れていた




