航編第十一話「暁光の月 六の日・増えていく音」
雨はもう強くはない。
叩くというより、流れているだけに近い。
航は廊下を歩いていた。
足は止まらない。
それが当たり前になりつつある。
(朝)
(食事)
(レイ)
(来る)
(水)
頭の中の音は、昨日より増えている。
それでも、まだ世界のすべてではない。
前を歩くレイは振り返らない。
ただ、一定の距離を保ちながら歩いている。
その距離が、少しずつ分かるようになってきていた。
(ここが境界)
言葉ではない。
だが、そういうものが“ある”と理解できる。
食堂に入る。
昨日と同じ場所。
同じ皿。
同じ湯気。
それでも、違いはあった。
音が、少しだけ聞こえるようになっている。
子供たちの言葉。
まだ崩れている。
だが、昨日よりは“まとまり”がある。
席に座る。
レイが皿を置く。
「食事」
航は一瞬だけ遅れてから繰り返す。
「食事」
そのあと、少しだけ止まる。
(ここは同じ)
昨日と同じ言葉。
昨日と同じ動作。
それでも、何かが違っていた。
“分からないまま混乱する感覚”が、少し減っている。
子供の一人が航を見る。
何かを言う。
速い。
崩れている。
だが、昨日と違う。
レイがいない。
それでも、音は途切れない。
航はその音を見つめる。
(まだ分からない)
(でも、昨日より近い)
レイが戻ってくる。
子供の言葉が再び投げられる。
レイは一拍だけ置き、その音を整えるように言う。
「名前」
航はその言葉を聞く。
(名前)
昨日より早く、意味が浮かぶ。
レイは続ける。
「教える」
航はそれを繰り返す。
(教える)
少しだけ考える。
(名前を教える)
完全ではない。
だが、形にはなっている。
レイがこちらを見る。
その視線の意味はまだ分からない。
だが、拒絶ではないことは分かる。
食事が終わる頃、レイが立ち上がる。
「来る」
航は立ち上がる。
(来る)
もう迷いはほとんどない。
廊下に出る。
雨はさらに弱くなっている。
レイは胸に手を当てる。
「レイ」
航も同じ動作をする。
「コウ」
レイは小さく頷く。
その瞬間、航は気づく。
(届いている)
昨日よりも、一昨日よりも。
少しずつ、世界が変わっている。
音が増えるたびに、
自分が“ここにいる”という感覚だけが、少しずつ確かになっていく。




