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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第九章 僕らが"普通"を捨てた日々
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泥のような嫉妬と、氷の計画

 ――side. 宮藤 玲茄――


 あの初詣から、しばらく時間が経った頃。

 おばあちゃんが倒れたショックから少しずつ立ち直ろうとしている双子に、井神くんは必死に寄り添っていた。

 休み時間のたびに悠希ちゃんが現れると二人のところへ行き、何気ない話題で彼女たちを元気付けようとする彼の横顔を、私は自分の席からただじっと見つめていた。


(……いいな。私にも、あんな風に寄り添ってくれる人がいたら)


 胸の奥に広がるのは、自分だけが世界から取り残されたような孤独と、泥のような嫉妬。

 この時期、誰にも頼れない状況下で、私の心は崩壊寸前の最悪な状態を迎えていた。

 義父がふとした時に向けてくる、得体の知れない薄気味悪い視線。それに怯える私を「思春期特有の被害妄想だ」と切り捨てる母親。

 家にいるだけで息が詰まり、心がすり減っていく。誰かに助けてほしかった。


 けれど、自分でもうまく説明できないこの薄気味悪い家庭の事情を、他人に――ましてや同級生の男の子に言えるわけがない。

 私は自分で自分にブレーキをかけ、感情を無理やり押し殺していた。


 それでも。双子に向かって優しく微笑む井神くんを見ていると、『もしかしたら彼なら、私をこの地獄から助け出してくれるかもしれない』という打算と甘い期待が、どうしても消えてくれなかった。

 抑え込んだSOSと、行き場のない嫉妬心は、やがて明確なストレスとなって私の体を蝕み始めた。

 夜は眠れず、食欲も落ち、鏡に映る自分の顔には、隠しきれない暗い翳りが落ちていた。


「宮藤さん。最近、顔色悪いけど……なにかあった?」


 だから、彼にそう声をかけられた時。

 一度は「なんでもない」と強がって見せたものの、限界を迎えていた私の心は、呆気なく決壊してしまったのだ。


「ごめん、井神くん。……やっぱり、少しだけ、話を聞いてもらってもいいかな」


 情けなく震える声で彼を引き止め、帰り道で、私は初めて自分の事情を吐き出した。

 藁にも縋る思いだった。


「僕の家に、来てみる?」


 私の重い告白に戸惑いながらも、彼は真っ直ぐな瞳で私に手を差し伸べてくれた。



 ――


 案内された井神家は、温かくて清潔な空気に満ちていた。

 リビングに通された私を待っていたのは、彼の母親の井神智里さんだった。


「急にごめんなさいね。凉から、お友達が困っていると聞いて」


 智里さんは、温かいミルクティーを淹れて私の前に置くと、一切話を遮ることなく、静かに耳を傾けてくれた。

 義父の視線や行動に恐怖や不快感があること。母親に気のせいだと一蹴されたこと。そのことで、衝突が絶えないこと。

 すべてを話し終えた私に、智里さんは大人の女性としての、静かで力強い言葉を紡いだ。


「まずは、よく話してくれたわね。あなたが怖い思いをしていること、不快に感じていることは紛れもない事実よ。決しておかしくなんかないわ」


 その一言で、張り詰めていた糸がふつりと切れ、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 智里さんは私が落ち着くのを待ってから、優しく、けれど"論理的な声"でヒアリングを始めた。


「いつ頃からそう感じるようになったの?」「どんなタイミングで視線を感じる?」

 彼女から投げかけられる静かで的確な質問に、ひとつひとつ答えていく。その対話は、まるで絡まった糸を丁寧に解きほぐすようだった。

 質問に答えるたびに、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。ひどく狭くなっていた視野がすっと広がり、自分の状況を客観的に、だんだんと冷静に分析できるような余裕が生まれ始めていた。


「玲茄さん。他の男の人からも、そういう目で見られて嫌な思いをしたことはあったかしら?」


 その問いに、私はハッとした。

 同級生の男子や、すれ違う見知らぬ大人から、下心のある視線を向けられることは何度もあった。その度に、私はひどい嫌悪感を抱いていた。


 息を呑み、言葉を失った私の反応を見て、智里さんは静かに目を細めた。


「もしかしたら、あなたが過去に晒されてきた不快な視線の記憶が、今のあなたに強い警報を鳴らしているのかもしれないわね」


 智里さんの言葉は、魔法のように私の絡まった思考を解きほぐしていった。


「だからこそ、まずは落ち着いて、"事実"と"感情"を切り分ける必要があるわ。……少し難しいかもしれないけれど、玲茄さん、お義父さんを"観察"してみてほしいの」

「観察……?」


「ええ。次にお義父さんからの視線を感じた時、目を逸らさずに観察して。『何月何日、どんな状況で、何を見ているのか』。本当にあなたを見ているのか、それとも別のものを見ているだけなのか。ノートでもスマホでもいい、メモに残すの。相手を客観的に観察して、記録する。もし本当に危険なデータが取れたら、その時は大人の私が動くから」

「……観察して、記録……」

「そう。ただ怯えるんじゃなくて、あなたの身を守るための武器にしなさい」


 被害者から、観察者へ。

 性急に結論を急ぐのではなく、私自身の力で事実を確かめさせるアプローチ。

 感情論ではなく客観的な根拠を求めるその提案は、私の胸の奥に深く刺さり、暗闇に光が差し込んだような確かな安心感を与えてくれた。


「そして凉。あなたは直接玲茄さんのお義父さんに抗議したり、背伸びをして解決しようとしたりしてはいけないわ」

「……うん」

「その代わり、彼女が避難したい時の"安全な港"になりなさい。もし玲茄さんが家にいたくない時は、ここまで安全に連れてくるボディガードを任せるわ」


 井神くんは、真剣な顔で「わかった」と力強く頷いてくれた。



 ――


「送るよ。暗くなってきたし」

「ありがとう、井神くん」


 相談を終え、井神くんに家の近くまで送ってもらう帰り道。

 私の心は、数時間前とは比べ物にならないほど軽く、澄み切っていた。


「今日は本当にありがとう。井神くんのお母さんのおかげで、私、自分がどうすればいいか分かった気がする」

「よかった。……母さん、ああいうの得意だから。また何かあったら、いつでもうちに来ていいからね」

「ふふ、頼もしいボディガードね。じゃあ、また明日、学校で」


 家の近くの交差点で彼に手を振り、背中を見送る。

 彼の姿が見えなくなった瞬間、私の顔から笑みがスッと消え落ちた。


 冷たい風に吹かれながら、私は先ほどまでいた井神家のリビングを思い返していた。

 私の思考を理解し、的確な解決策を提示してくれる合理的な母親。

 私のために行動し、守ろうとしてくれる真っ直ぐな男の子。

 温かくて、清潔で、理知的な、あの空間。


(……私、あの"家"が欲しい)


 私の実家なんかより、あそこが私の居場所にふさわしい。

 けれど、ただの同級生のままでは、あの家に居座ることはできない。どうすれば、私が彼の"特別な存在"として、あの場所にずっと入り浸ることができるだろうか。


 思考を巡らせた私の脳裏に、パズルのピースのようにある存在が浮かび上がった。

 ――精神的に不安定になっている、茉依ちゃんと悠希ちゃん。


(もし、双子のおばあちゃんに"万が一"のことがあったら……)


 胸の奥で渦巻いていた泥のような感情は、いつの間にか、氷のように冷たく澄み切った"計画"へと形を変えていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

今後の更新等について活動報告に記事を追加しましたので、そちらをご確認ください。


本作を少しでも楽しんでいただけましたら、感想やブックマーク登録、評価などをいただけますと執筆の大きな励みになります。


引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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