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希望という名の、絶望への第一歩

 ――"普通"であることは、いつだって正しい。けれど、それは時にひどく残酷だ。

 狂った世界に魅入られた、まともな人間。

 彼女がその絶対的な引力に抗えなくなった時、自らの精神を保つために選んだのは――



――side. 四谷 慶(よつやけい)――


 冬休みが明け、三学期が始まった。

 吐く息が白く染まる、一月の冷たい空気の中。うちは、大きな決意を胸に抱いて教室の扉を開けた。


「おはよー、玲茄! 茉依ちゃん、悠希ちゃんも!」

「おはよう、慶」

「おはよー、慶ちゃん!」


 自分の席に鞄を置くのもそこそこに、うちは玲茄たちが集まっている席へと向かった。

 そこには当然のように、井神くんの姿もある。


「あ、井神くんもおはよ!」

「……ああ。おはよう、四谷」


 井神くんは少しだけ驚いたように目を瞬かせたあと、静かな声で挨拶を返してくれた。

 たったそれだけのことで、うちの胸の奥がきゅっと音を立てて甘く締め付けられる。


(……やっぱり、うちは、この人が好きなんだ)


 冬休み前の、あのドラッグストアでの出来事。

 井神くんと折崎先輩のやり取り。それを見て、うちはもうどうしたらいいかわからなくなって、お姉ちゃんのアパートでたくさん泣いた。

 でも、お姉ちゃんに「後悔しない選択をしなさい」って背中を押されて、ようやく自分の気持ちに正直になることができたのだ。


 あの時、玲茄は泣いているうちに優しく寄り添って、こう囁いた。

『あれを見てしまっても諦められないなら、一度、凉と私と慶の三人でお出かけしましょうよ。彼がどういう人間か、慶の目で確かめてみればいいわ』と。


 だからうちは、逃げないって決めた。

 今までみたいに、ただ遠くから見つめているだけの"ただのクラスメイト"じゃなくて、自分からあの輪の中に踏み込んでいくんだと。


 うちは積極的に三人に――そして、井神くんにも話しかけるようにした。

 玲茄の隣の席に座って雑談に混ざったり、茉依ちゃんや悠希ちゃんと一緒にお昼を食べたり。

 最初は少しぎこちなかったけれど、元々玲茄とは仲が良かったこともあり、少しずつうちがその輪の中にいても不自然じゃない空気が出来上がっていった。


 井神くんは相変わらず口数は少ないけれど、うちが話しかければちゃんと答えてくれるし、たまに優しく微笑んでくれる。そのたびに、うちは自分が一歩前進できているような気がして、嬉しかった。



 ――でも。

 そんなうちの様子を、心配そうに見つめている視線があった。


「……ねえ、四谷」


 ある日の昼休み。

 トイレの洗面台で手を洗っていると、一緒にいた親友の石井が、思い詰めたような顔で声をかけてきた。


「どうしたの、石井?」

「あのさ……四谷って、井神くんのこと、マジなの?」


 単刀直入なその問いに、うちはビクッと肩を揺らした。

 石井はずっと、うちが井神くんを好きなことを知っている。


「……最近、ずっとあのグループにいるじゃん。別に井神くんたちと仲良くするのはいいと思うんだけどさ……あの四人って、なんていうか……入り込む隙がないっていうか、普通じゃない空気があるじゃん?」


 石井の言葉は、痛いほど図星だった。

 あの四人の関係性が"普通"じゃないことなんて、うちが一番よくわかっている。

 でも。


「……うん。マジだよ」

 うちは、鏡の中の自分と目を合わせながら、はっきりと頷いた。


「普通じゃないかもしれないけど……でも、うちは、どうしても井神くんのことが諦められないの」

「四谷……」

「ここで逃げたら、絶対に後悔する。……後悔だけは、絶対にしたくないから」


 お姉ちゃんから貰った言葉を、そのまま自分の決意として口にする。

 石井はしばらく心配そうにうちの顔を見つめていたけれど、やがて「はぁ」と小さくため息をついた。


「……わかった。四谷がそこまで言うなら、私は見守るよ。でも、辛くなったら絶対すぐに言いなよ? いつでも話、聞くからさ」

「石井……! うん、ありがとう!」


 親友の優しさに触れ、うちの決意はさらに固まった。


 それから、数日後。

 自分の気持ちの整理が完全についたうちは、放課後の教室で、帰り支度をしている玲茄に声をかけた。


「玲茄」

「ん? どうしたの、慶」


 振り返った玲茄は、息を呑むほど美しい笑顔を浮かべていた。


「あのさ……冬休み前に、玲茄が言ってくれたことなんだけど。……三人でお出かけするやつ」

「ええ」

「うち……行きたい。井神くんのこと、もっとちゃんと知りたい」


 緊張で声が震えそうになるのを必死に堪えて、うちは玲茄の目を真っ直ぐに見つめた。

 すると玲茄は、うちの言葉を待っていたかのように、ふわりと艶やかに微笑んだ。


「ええ、もちろんよ。慶がそう言ってくれるのを待っていたわ」

「ほんと……!?」

「ええ。凉には、私から伝えておくわね。……そうね、今度の週末はどうかしら?」

「うん! うちはいつでも大丈夫!」

「ふふっ、わかったわ。じゃあ、土曜日の朝十時に、駅前集合で」


 玲茄は優しくうちの肩に触れ、「楽しみにしていてね」と囁いた。

 その手があまりにも冷たかったことに、うちは一瞬だけ背筋がゾクッとしたけれど……それはきっと、冬の寒さのせいだろうと、自分に言い聞かせた。


(……よしっ!)


 うちは心の中で、小さくガッツポーズをした。

 これでようやく、うちも井神くんの隣を歩くことができる。


 この時はまだ……その前向きな一歩が、決して後戻りのできない狂った世界への入り口だなんて、これっぽっちも気づいていなかった。

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