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幕間:たとえそこが、歪な世界だとしても

――side. 四谷 佳蓮(よつやかれん)(ランジェリーショップ店員)――


 夜。十九時過ぎ。

 仕事が終わり、今日はどこにも寄らずにすぐ帰宅の途についた。


(今日来た新婚夫婦っぽい二人のやり取り、良かったわー……)


 私は冬の夜道を歩きながら、今日の接客を思い出してホクホクと頬を緩めていた。

 女性の下着売り場に入るのを頑なに躊躇(ためら)う旦那さんに、奥さんが上目遣いで甘え、少しずつ照れを崩していくあの流れ。実に見事な手腕だった。結果的に良く似合うランジェリーをお買い上げいただけたし、店員としても、私個人としても満足のいく仕事だったと言える。


 そんなことを考えながら、一人暮らしをしているアパートの前に到着し――私は足を止めた。


「……えっ?」


 私の部屋のドアの前に、誰かが膝を抱えて座り込んでいる。

 警戒しながらそっと近づくと、そこにいたのは、なんと妹の(けい)だった。


「どうしたの慶!? こんな寒いのに、ずっとここにいたの!?」

「……おねえ、ちゃん」


 顔を上げた慶を見て、私は息を呑んだ。

 泣いていたのだろう、目は真っ赤に充血し、顔は青ざめ、これまでの彼女からは想像もつかないほど酷く傷ついた表情をしていたのだ。


 これは、間違いなく何かあった。

「ほら、早く部屋に入ろ。風邪ひいちゃうから」

 私は急いで鍵を開け、慶の背中を支えるようにして部屋の中へと促した。


 すぐにお風呂を沸かし、凍えきった慶を一番に放り込む。

 お湯が溜まるのを待っている間も、着替えを用意している間も、慶はずっと俯いたまま、一言も言葉を発しなかった。


 慶がお風呂に入っている間に、私は母親へと電話をかけた。

『佳蓮? どうしたの?』

「あ、お母さん? ……慶が今、私の部屋に来てるんだけど、そっちに連絡行ってる?」

『あら、友達と遊びに行くから帰りは夜になるかもーとは聞いてたけど、佳蓮のところに行ってたのね?』


 どうやら、家出や家族間のトラブルというわけではないらしい。

「うん、そうみたい。とりあえず今日は私のとこに泊めるねー」

 私は母親に心配をかけないよう、あえて軽いトーンでそう告げて電話を切った。


 スマホをテーブルに置き、脱衣所の方を見る。

(親に連絡もできないほど思い詰めてるなんて……恋愛絡み?)


いや、彼氏なんかできれば、あの慶のことだから私に嬉々として報告してくるはずだ。となると、いつも一緒にいる石井ちゃんと深刻な喧嘩でもしたのだろうか。


 年の離れた妹。

 姉の私から見ても、慶は美少女で、ぽわぽわとした可愛らしい子だ。高校に入ってから少しギャルっぽいメイクやファッションをするようになったけれど、根は真面目で素直な優等生だし、成績だっていい。私が社会人になって一人暮らしを始めてからも、定期的に会いに来てくれる、本当に可愛い妹だ。


 だからこそ、今の慶の様子が異常なのだとわかる。

 きっと、彼女の心に致命的なダメージを与える"何か"があったに違いない。


 やがて、カチャリと扉が開き、慶がお風呂から出てきた。

「お姉ちゃん、ありがとう……」

 温まったことで先程よりは少しだけ顔色が戻った慶が、力なく笑う。

 だが、そのまま絨毯の上にへたり込むと、慶は再び深く俯いてしまった。


 私は温かいココアを淹れて慶の前に置き、その華奢な背中をゆっくりと撫でた。

「……何があったか、話せる?」

「……うん」


 慶はマグカップを両手で包み込むように持ち、しばらくの沈黙の後、ぽつりぽつりと、ゆっくり話し出した。


「本当に、そんな、たいしたことじゃないの……。言ったことなかったんだけど、高校に入ってすぐ、好きになっちゃった男の子がいてね」

「うん」

「でも、恥ずかしくて。うちから話しかけたりもできなくてね、今も友達と一緒じゃないと、まともに話せないの」


 慶は自嘲するように小さく笑った。

「でもね、その男の子には……すごく仲が良い、可愛くてキレイな女の子たちがいるの。いつも一緒で、たまに動きがシンクロしてるくらい息ぴったりで。……でも、付き合ってないよ、って、その女の子たちは言うの。恋人なんかより、ずっと距離が近いのに」


 私は黙って背中を撫で続けた。


「その子たちでも付き合ってないのに、ほとんど接点のないうちじゃ、ムリだなって思って。……でもね、あきらめられないの。どうしても、目で追っちゃうの。彼が笑ってる顔見ると、胸がぎゅって苦しくなるの」


 ポツ、ポツと、慶の瞳から大粒の涙が零れ落ち、絨毯に染みを作っていく。


「その女の子たちとは、うちも友達なんだけど……ほんと、いい子たちなんだ。だから……いつか、この気持ちの整理ができる日がくるといいなって、ずっと思ってたの」


 慶はぐっと唇を噛み締めた。

「そしたらさ。今日、石井と遊んでたら、その子たちとその男の子が遊んでるところに遭遇しちゃって。お昼ご飯のときと、ゲームセンターにいるとき。なんかよく会うなって思ってたらさ……まさかの、三回目があってね」


 ここで、慶の声のトーンが、スッと一段下がった。

 まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような、怯えを含んだ声に。


「ドラッグストアでさ。その男の子が、別な女の人といたの。……でもその人って、うちの学校の生徒会長で、その男の子の従姉なの」

「うん」

「だから最初は、偶然会ったのかなって思ってたんだけど。二人の纏う空気がさ、全然違って……それに、井神くんの手……手にさ……うう……っ」


 言葉を詰まらせ、慶はついに堪えきれなくなったように、わあっと声を上げて泣き出した。

 おそらく、"ただの従姉弟同士"ではない、決定的な何かを見てしまったのだろう。


 泣きじゃくりながら、慶は絞り出すように続ける。

「あの三人だから、しょうがないなって、うちは我慢してたのに……っ! なんで、なんで他の人が入り込んでるの!!? なんでうち……うちはダメなの……っ、うぅぅ……!!」


 私は慶の背中を撫でながら、彼女の言葉を頭の中で整理し、反芻した。

 ――まず、三人の女の子。

 ――そこへ新たに入り込んだ、生徒会長の女性。

 ――その中心にいる、男の子。


(……あれ?)


 私の脳裏に、あの恐ろしいほど美しい集団の記憶がフラッシュバックした。

 ――ありえないくらい可愛い三人の女の子。

 ――息を呑むほど美しい、黒髪のモデルのような女性。

 ――そして、危険な色気を纏った、あの男の子。


(……嘘でしょ。まさか、あの子たちなの?)

 背筋にぞわりと冷たいものが走る。

 私が、いつも以上に妄想を膨らませながらランジェリーを販売した、あの異様なグループ。

 妹が恋い焦がれ、絶望している相手は、まさか――。


 私が戦慄していることなど露知らず、慶はしばらく泣きじゃくった後、ふと独り言のようにポツリと呟いた。


「でもね、それでも、あきらめきれないの。好きな気持ちが、消えないの……。どうしたらいいんだろう。玲茄の提案に乗っちゃったし……。あの中に、うちも入れるのかな。でも、あれって絶対普通じゃないし……どうしたら、いいんだろう……」


 焦点の合わない瞳で虚空を見つめながらブツブツと呟く慶。

 もはや、私に対して言っているのではない。感情の許容量を超えてしまい、思考がそのまま口から漏れ出ている状態だ。


「……慶」


 私は、努めて冷静な声を出し、彼女の肩を少し強めに抱いた。

「っ!? あ、ごめん……一人の世界に入っちゃった」

 ハッとして我に返った慶に、私は一つずつ、事実を整理するように確認していく。


「その男の子のこと、大好きなんだね」

「……うん」

「で、その三人の女の子たちと、慶は友達なのね?」

「うん」

「その子たちは男の子と付き合ってないけど、すごく仲が良い。……で、その子たちの他に、これまた新しく仲の良い女の子がいるのね?」

「……うん」

「その子が男の子の輪の中に入り込んでいるのを見て、慶は『なんで私は入れないの』って、嫉妬しちゃったんだ?」


 慶はビクッと肩を揺らし、恥ずかしそうに視線を逸らした。

「……嫉妬、なのかな。……そうかも」

「それでもやっぱり、あきらめられないんだね?」

「……うん」


 私は小さく息を吐き、最後の一押しをした。

「さっきぼそっと言ってた、『玲茄』って子の提案に乗ったって言ってたけど。それって、その男の子のこと好きだってことがもう彼女にバレてて、しかも『今度時間作って会うか遊ぶかしましょう』って誘われた、ってところなんじゃない?」


「えっ!?」

 慶は目を丸くして私を見た。

「なんで、わかるの……?」


「伊達にあなたより長く生きてないのよ」

 私はふふっと余裕のある笑みを作って見せた。

 もちろん、私が彼らの"異常性"をすでに知っているからこそ導き出せた推論だが、今はそんなことを言うべきではない。


「なるほどねぇ。……そこまで場ができあがってるんだったら、そのまま行ってみたらいいんじゃない?」

「え……?」

「正直、それに乗っかってみてから判断しても遅くないと思うよ。きっぱりあきらめるのか、それとも、あきらめずに彼と一緒にいる方法を探すのか」


 私は、慶の両肩をしっかりと掴み、その真っ直ぐな瞳を見つめ返した。

「一つだけ言えるのは、後悔しない選択をすること。……ね?」

「……」


 慶は数秒間私の言葉を反芻し、やがて、憑き物が落ちたようにふっと表情を和らげた。

「……うん、わかった。ありがとう、お姉ちゃん」


 慶は今日初めて、いつもの彼女らしい、可愛らしい笑顔を見せてくれた。

 その後は二人で夕食のオムライスを食べ、他愛のない話をして、同じベッドに入って就寝した。



 ――深夜。

 

 隣でスースーと規則正しい寝息を立てる慶の横顔を見つめながら、私は今までの出来事を振り返る。


 脳裏に浮かぶのは、私の職場に現れた、底知れない美男美女たちの姿。

 あの子たちは、間違いなく"普通"ではない。

 もしも慶が彼をあきらめなかった場合……どう転んでも、彼女は"普通"からは完全に逸脱した関係へと足を踏み入れることになる。


 純粋で、真面目な女子高生である慶は、そんな狂った世界に耐えられるのだろうか。

 いや、そもそも玲茄という子は、どういう思惑で慶をあの中へ引き込もうとしているのか。


「……はぁ」


 私は小さなため息をついた。

 姉として、あんな"修羅場"に妹を行かせたくないという思いはある。だが、慶のあの泣き顔を見れば、無理に引き剥がすことなどできないとわかっていた。


(私は、慶が絶対に後悔しないよう……こまめに話を聞き、アドバイスしていこう)


 普通の恋愛相談とは、次元の違うアドバイスになるかもしれない。

 それでも私は、世界で一番可愛い妹の味方であり続けると、静かな冬の夜の底で固く決意したのだった。

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