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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第五章 名前を奪う光、歪に癒着する箱庭
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百合の香りと、狂気の調律

――side. 宮藤 玲茄――


夕暮れ時のリビングは、オレンジ色の西日に薄く染まっていた。

ソファでは、いつの間にか寝息をたてていた茉依と悠希が、寄り添うように眠っている。

私は一人、読みかけの文庫本に視線を落としながら、静かにその時を待っていた。


ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。


「……ただいま」

「おかえりなさい、凉」


私は本を閉じ、リビングに入ってきた彼を出迎える。

その瞬間、私の鼻腔を微かに、けれど確かな異物の気配が掠めた。

ここ一ヶ月ほど、彼が時折外から纏って帰ってきていたあの匂い。私たちの箱庭には咲かない、気高く甘い百合の花の香りだ。そして何より――。


「……ふふっ」


私は思わず、眠る二人に聞こえないよう、口元を押さえて小さく吹き出した。


「なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」

「ええ。とても分かりやすいものが」


私は立ち上がり、凉の首元――シャツの襟の隙間から微かに覗く、淡い赤色の痕を指差した。


「美琴さんとのデート、随分と楽しかったみたいね?」

「……」


凉は慌てて襟元を隠すこともなく、ただ無表情のまま私を見つめ返した。

その動じない瞳を見て、私の胸の奥で、歓喜の震えが弾けた。


私の読みは、少しだけズレていたようだ。

美琴さんが凉の深淵を覗き込み、耐えきれずに逃げ出すか、手を引く。それが私の描いていた盤面だった。

しかし、現実は違ったようだ。まさか、絡め取ってくるなんて。


「……シャワー、浴びてきた方がいいわよ」


私は、ソファで眠る双子に視線を移して微笑んだ。


「あの二人が起きる前にね。その香りは、まだあの子には強すぎるから」

「……わかった」


凉は短く答え、脱衣所へと向かっていく。

彼の背中を見送りながら、私は自分の唇がこれ以上ないほど弧を描いているのを自覚した。


ああ、なんて恐ろしくて、魅力的なんだろう。

私の想像をやすやすと超えていく。

でも、だからこそ――この歪な箱庭を維持するためには、少しだけ手入れが必要だ。


「今日は、あの子を"調律"してもらわなくちゃね」


私は誰に言うでもなく、甘く呟いた。



――side. 井神 凉――


シャワーを浴び、他人の香りを完全に洗い流してリビングに戻ると、茉依が目を覚ましていた。


「あ……りょーくん、おかえりなさい」


ソファに座る茉依の瞳が、俺の姿を捉えて微かに揺れた。

本能で察知しているのだ。俺が今日、自分たち以外の"誰か"と濃密な時間を過ごしてきたことを。

彼女の瞳の奥に、焦燥がじわりと広がっていくのがわかる。


(……ああ。直してやらないと)


俺は自然な足取りで茉依の隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。


「りょ、くん……?」

「留守番、ありがとな。寂しかったか」


俺が低く囁きながら、彼女の髪を優しく撫でる。

それだけで、茉依の体からふっと力が抜け、俺の胸にすがるように額を押し付けてきた。


「う、うん……。りょーくんがいなくて、私……」

「大丈夫だ。俺はお前たちのところにしか帰らない。お前は、ここで俺のために笑っててくれれば、それでいいんだ」

「……っ、うん。うんっ……!」


茉依は俺のシャツを強く握りしめ、安堵の涙を滲ませながら、深く満足そうに目を閉じた。

俺が与える言葉と熱。それだけが、今の彼女を"中里茉依"として形作る唯一の接着剤。

まだ、不安定だ。


ふと、視線を上げる。

ダイニングテーブルで、玲茄が頬杖をつきながら、俺たちのやり取りを静かに見つめていた。


その涼やかな双眸と視線が絡み合った瞬間。

俺の中で、かつての記憶がフラッシュバックした。


旅行から帰った夜、玲茄が俺に触れたあの手。

張り紙事件の後、悠希が俺の不安を甘く溶かしたあの夜。

そして、今の茉依。


(……そうか)


俺は、今ならはっきりと理解できる。

俺が茉依にこうしているように、俺もまた、彼女たちによって"調律"されていたのだ。

彼女たちの歪な愛情によって、"今の俺"は形作られた。


でも、それでいい。

これでいいんだ。


俺は茉依を抱き寄せたまま、玲茄と目だけで会話する。

玲茄は薄く微笑み、まるで素晴らしい演奏を聴き終えたように、ゆっくりと目を伏せた。



――


翌朝。

いつも通りの四人で、通学路を歩く。

茉依は俺の腕に抱きつきながら明るく笑い、悠希は静かにその後ろを歩き、玲茄が隣で呆れたように微笑んでいる。


表向きは、何も変わらない日常。

だが、心の内側は、以前とは全く異なっている。


あの、"三つの約束"。

その三つ目は、ずっと漠然としたままだった。だが今は、その輪郭が少しだけ見える気がした。


「おはよう、凉ちゃん。中里姉たち」


校門の前に、腕章をつけた美琴が立っていた。

長い髪は、昨日とは違い、きっちりといつものポニーテールに結い上げられている。完璧な生徒会長の鎧だ。


「おはようございます、会長」

「おはようございますっ! 会長!」


俺と茉依が、いつも通りに挨拶を返す。

美琴もまた、淀みのない柔らかな笑顔で応えた。


その時だった。


「おはようございます、美琴さん」


玲茄が俺の前に一歩進み出た、その瞬間。

美琴と玲茄の視線が、空中で交差した。

言葉はない。だが、そのほんの数秒間、ひどく艶やかに、そして残酷に微笑み合った。


二人の思惑が交差するこの場所で、俺たちの"名前のない楽園"は、今日も静かに息づいている。

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