百合の香りと、狂気の調律
――side. 宮藤 玲茄――
夕暮れ時のリビングは、オレンジ色の西日に薄く染まっていた。
ソファでは、いつの間にか寝息をたてていた茉依と悠希が、寄り添うように眠っている。
私は一人、読みかけの文庫本に視線を落としながら、静かにその時を待っていた。
ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。
「……ただいま」
「おかえりなさい、凉」
私は本を閉じ、リビングに入ってきた彼を出迎える。
その瞬間、私の鼻腔を微かに、けれど確かな異物の気配が掠めた。
ここ一ヶ月ほど、彼が時折外から纏って帰ってきていたあの匂い。私たちの箱庭には咲かない、気高く甘い百合の花の香りだ。そして何より――。
「……ふふっ」
私は思わず、眠る二人に聞こえないよう、口元を押さえて小さく吹き出した。
「なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」
「ええ。とても分かりやすいものが」
私は立ち上がり、凉の首元――シャツの襟の隙間から微かに覗く、淡い赤色の痕を指差した。
「美琴さんとのデート、随分と楽しかったみたいね?」
「……」
凉は慌てて襟元を隠すこともなく、ただ無表情のまま私を見つめ返した。
その動じない瞳を見て、私の胸の奥で、歓喜の震えが弾けた。
私の読みは、少しだけズレていたようだ。
美琴さんが凉の深淵を覗き込み、耐えきれずに逃げ出すか、手を引く。それが私の描いていた盤面だった。
しかし、現実は違ったようだ。まさか、絡め取ってくるなんて。
「……シャワー、浴びてきた方がいいわよ」
私は、ソファで眠る双子に視線を移して微笑んだ。
「あの二人が起きる前にね。その香りは、まだあの子には強すぎるから」
「……わかった」
凉は短く答え、脱衣所へと向かっていく。
彼の背中を見送りながら、私は自分の唇がこれ以上ないほど弧を描いているのを自覚した。
ああ、なんて恐ろしくて、魅力的なんだろう。
私の想像をやすやすと超えていく。
でも、だからこそ――この歪な箱庭を維持するためには、少しだけ手入れが必要だ。
「今日は、あの子を"調律"してもらわなくちゃね」
私は誰に言うでもなく、甘く呟いた。
――side. 井神 凉――
シャワーを浴び、他人の香りを完全に洗い流してリビングに戻ると、茉依が目を覚ましていた。
「あ……りょーくん、おかえりなさい」
ソファに座る茉依の瞳が、俺の姿を捉えて微かに揺れた。
本能で察知しているのだ。俺が今日、自分たち以外の"誰か"と濃密な時間を過ごしてきたことを。
彼女の瞳の奥に、焦燥がじわりと広がっていくのがわかる。
(……ああ。直してやらないと)
俺は自然な足取りで茉依の隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。
「りょ、くん……?」
「留守番、ありがとな。寂しかったか」
俺が低く囁きながら、彼女の髪を優しく撫でる。
それだけで、茉依の体からふっと力が抜け、俺の胸にすがるように額を押し付けてきた。
「う、うん……。りょーくんがいなくて、私……」
「大丈夫だ。俺はお前たちのところにしか帰らない。お前は、ここで俺のために笑っててくれれば、それでいいんだ」
「……っ、うん。うんっ……!」
茉依は俺のシャツを強く握りしめ、安堵の涙を滲ませながら、深く満足そうに目を閉じた。
俺が与える言葉と熱。それだけが、今の彼女を"中里茉依"として形作る唯一の接着剤。
まだ、不安定だ。
ふと、視線を上げる。
ダイニングテーブルで、玲茄が頬杖をつきながら、俺たちのやり取りを静かに見つめていた。
その涼やかな双眸と視線が絡み合った瞬間。
俺の中で、かつての記憶がフラッシュバックした。
旅行から帰った夜、玲茄が俺に触れたあの手。
張り紙事件の後、悠希が俺の不安を甘く溶かしたあの夜。
そして、今の茉依。
(……そうか)
俺は、今ならはっきりと理解できる。
俺が茉依にこうしているように、俺もまた、彼女たちによって"調律"されていたのだ。
彼女たちの歪な愛情によって、"今の俺"は形作られた。
でも、それでいい。
これでいいんだ。
俺は茉依を抱き寄せたまま、玲茄と目だけで会話する。
玲茄は薄く微笑み、まるで素晴らしい演奏を聴き終えたように、ゆっくりと目を伏せた。
――
翌朝。
いつも通りの四人で、通学路を歩く。
茉依は俺の腕に抱きつきながら明るく笑い、悠希は静かにその後ろを歩き、玲茄が隣で呆れたように微笑んでいる。
表向きは、何も変わらない日常。
だが、心の内側は、以前とは全く異なっている。
あの、"三つの約束"。
その三つ目は、ずっと漠然としたままだった。だが今は、その輪郭が少しだけ見える気がした。
「おはよう、凉ちゃん。中里姉たち」
校門の前に、腕章をつけた美琴が立っていた。
長い髪は、昨日とは違い、きっちりといつものポニーテールに結い上げられている。完璧な生徒会長の鎧だ。
「おはようございます、会長」
「おはようございますっ! 会長!」
俺と茉依が、いつも通りに挨拶を返す。
美琴もまた、淀みのない柔らかな笑顔で応えた。
その時だった。
「おはようございます、美琴さん」
玲茄が俺の前に一歩進み出た、その瞬間。
美琴と玲茄の視線が、空中で交差した。
言葉はない。だが、そのほんの数秒間、ひどく艶やかに、そして残酷に微笑み合った。
二人の思惑が交差するこの場所で、俺たちの"名前のない楽園"は、今日も静かに息づいている。




