皇帝の盤面、女王の招待状
――side. 宮藤 玲茄――
文化祭の喧騒が遠い夢のように去り、校舎にいつもの静かな放課後が戻ってきた頃。
私は一人、生徒会室の扉を叩いた。
「どうぞ」
短い応答に促されて中に入ると、窓際で書類に目を通していた生徒会長――折崎美琴が、ペンを置いてこちらを見据えた。
室内に他の役員の姿はない。彼女が意図的に人払いをしているのは明白だった。
「文化祭の片付けも一段落ついたようですね。お疲れ様でした、美琴さん」
「ああ。玲茄ちゃんも、クラスの出し物ご苦労だった」
事務的な労いの言葉。
私たちは互いに、一切の温度を含まない笑みを浮かべたまま、しばしの間、視線を交差させた。
「……結果はどうだ?」
先に静寂を破ったのは、美琴だった。
主語のない問い。けれど、それが何を指しているのか、私に分からないはずがない。
「以前より、ずっと安定しているだろう?」
「ええ。……より歪に、ね」
「歪でも、壊れないなら問題ない」
美琴は淡々と、一切の悪びれる様子もなく言い切った。
「脆いガラス細工は、常に誰かが手を添えて守らなければならない。だが、完全に癒着した樹脂の塊なら、もう手放しても割れることはない。……そうだろう?」
彼女の描いていた盤面。単なる無自覚な善意というわけではない。
脆いものを強固にしてあげるという、一切の悪意がない、残酷なまでの"正しさ"。
なるほど。彼女には最初からこの結末が"最善"だと見えていたのだ。
「君たちの"城"のバランスが完全に安定してしまえば、彼にもようやく"外"を見る余裕ができる。……私のための居場所を作る余裕がね」
美琴が、薄く微笑む。
「お見事です、美琴さん。あなたがただの"正しい光"なら、私たちがここまで追い詰められることはなかったでしょうね」
私はゆっくりと歩み寄り、彼女の対面にある来客用のソファに腰を下ろした。
「でも、あなたがその毒を注ぎ込んでくることは、最初からわかっていましたよ」
「……ほう」
「だから、私はあえて何もしなかった。茉依が壊れるのも、凉が自分の中の"なにか"に気づくのも、あなたの思惑が私たちを侵食するのを、ただ静観していたんです」
美琴の眉が、微かにピクリと動いた。
「私の思惑を利用したと?」
「ええ。凉に、"主"として覚醒してもらうためには、あなたのような劇薬がどうしても必要だったから」
美琴は自分のスペースを空けるために箱庭を固めさせ、私は凉を真の支配者にするために箱庭を固めさせた。
目的は違う。だが、結果は同じだった。
「……君は、本当に底が知れないな、玲茄ちゃん」
「光栄です」
私は優雅に足を組み、美琴を真っ直ぐに見つめ返した。
「美琴さん。凉は私たち三人の手前、あなたに対しては他人行儀な対応ばかりだったでしょう?」
「……ああ。彼は、私に対して壁を作っていたからな」
「ええ。でも、きっと本心はそうじゃないはずです。箱庭が安定した今なら、彼はもっと素直に、あなたと向き合えるかもしれない」
私は、極上の甘さを含んだ声で、"皇帝"の首元にナイフを滑り込ませた。
「今度の休日、二人で出掛けてみたらどうかしら?」
美琴が、わずかに目を見開く。
私からの、まさかの"譲歩"――あるいは"招待状"。
「それが、美琴さんの望む形の"気持ち"なのかは、わかりませんけれど」
凉はもう、美琴がかつて知っていた"優しい弟分"ではない。
美琴がその深淵を覗き込んだとき、彼女は、果たしてそれに耐えられるのか。
「……いいだろう。君の提案、ありがたく受け取っておくよ」
美琴は、不敵な笑みを浮かべて頷いた。
私は立ち上がり、静かに一礼して生徒会室を後にする。
扉が閉まる瞬間、冷たい廊下の空気が頬を撫でた。
毒のテイスティングは終わった。
次は、猛毒に浸かりきった怪物を、かつての飼い主に引き合わせる時間だ。




