盤外の操り人形、歪な日常の帰還
――side. 井神 凉――
翌日の火曜日。朝八時半。
体育館に集められた全校生徒の間に、ざわめきと戸惑いが広がっていた。
突然の臨時全校集会。壇上に立っているのは、険しい顔をした校長と、ひどく顔色の悪い二人の教師――嵐田と、高良田だった。
「……静粛に」
マイクを通した校長の声が響き、体育館が静まり返る。
やがて、促されるようにマイクの前に立った嵐田は、一度だけぎゅっと目を閉じ、マイクを握る手に白くなるほど力を込めた。
「金曜日の放課後、校内の掲示板に特定の生徒を中傷する張り紙が貼られるという事案が発生した。皆もすでに、知っていることと思う」
嵐田の声は、いつも生徒を威圧していたあの熱を完全に失い、ひどく掠れていた。
その隣で俯いている高良田も、まるで生気を吸い取られた抜け殻のようだ。
「結論から言う。あれは事実無根のデタラメだ」
嵐田は台本を読み上げるように、淡々と、感情を殺して言葉を紡ぐ。
「張り紙を作った生徒から、私たち二人のもとへ直接相談と謝罪があった。個人的な誤解と嫉妬から、あのような卑劣な嘘を流してしまったと、深く反省している」
体育館が、再びどよめきに包まれる。
俺は列に並びながら、壇上の嵐田を静かに見つめていた。
――これが、玲茄の言っていた"最後の仕上げ"なのか。
「我々教師も、この生徒の思い詰めた様子に気づけず、事態を招いた責任を痛感している。被害に遭った生徒たちには、この場を借りて深く謝罪する」
嵐田と高良田が、全校生徒の前で深く頭を下げる。
正義感の塊だった嵐田にとって、自分の罪を"架空の生徒の罪"として被り、自分が作り上げた嘘のために頭を下げるこの状況は、社会的な死よりも屈辱的だろう。
「なお、本件の当事者たちにはすでに事情を共有し、納得してもらっている。該当生徒のプライバシーと未来を守るため、これ以上の公表や詮索は一切控えること。また、画像がSNS等で拡散されているようだが、そのような事情であるため、直ちに削除し、決して迷惑行為を行わないように。……以上だ」
顔を上げた嵐田の目は、完全に死んでいた。
噂を根本から否定し、SNSの鎮火まで教師の権力で行わせる。誰の血も流さず、大人たちのプライドだけを完璧にへし折り、俺たちを守る絶対の"防波堤"へと作り変えたのだ。
俺たちの完璧な勝利、そして――残酷なまでの、公開処刑だった。
――side. 佐藤 由希枝(二年A組担任)――
(……どういう、ことなの?)
体育館の壁際に立ち、壇上の嵐田先生と高良田先生を見つめながら、私は痛む胃の辺りを無意識に押さえていた。
事態が、まったく呑み込めない。
張り紙が貼られたのは金曜日。だが、事態が動いたのは月曜日。今日は火曜日。
休日の二日間を挟んだとはいえ、実質たったの一日で、あの頭の固い嵐田先生と、事勿れ主義の高良田先生が、揃ってあんなに顔色を無くして全校生徒の前で謝罪している。
あの二人の震え方は、尋常ではない。まるで、何か決定的な弱みを握られ、無理やり言わされているような……。
ふと、昨日の放課後の記憶が蘇る。
昇降口で彼らをなんとか励まそうとした私に、悠希さんが向けたあの冷たい瞳。
『もうケリはつけましたので、何の問題もありません』
そして、玲茄さんが浮かべた、完璧で、底知れぬ優等生の微笑み。
『先生の"胃痛の種"は、私たちが綺麗に摘み取っておきましたから』
背筋に、冷たい汗が伝うのを感じた。
たった一日。たった一日で、あの高校生たちは、大人二人を完全に屈服させてしまったというのか。
思考が追いつかず、呼吸だけが浅くなる。
私は思わず、A組の列に並ぶ四人の背中を、怯えるような目で見つめていた。
――side. 石川 泰一(学年主任)――
(……ほう)
腕を組み、壇上の惨状を見上げながら、私は内心で深い感嘆の息を漏らしていた。
嵐田と高良田が並んで頭を下げる姿。あの二人の性格を知っている者なら、これが"生徒を庇っての美談"などではないことくらい、すぐに気がつく。
あの嵐田の折れ切った目。高良田の脂汗。
彼らは完全に"敗北"したのだ。
昨日の放課後、おそらく井神たちと対峙したであろう、あの数時間の間に、一体何があったのか。どんな証拠を突きつけ、どんな脅しをかければ、あの大の大人二人をここまで完璧な"操り人形"に仕立て上げることができるのか。
(まさか、たった一日でここまでやり切るとはな……)
私は視線を動かし、生徒の列に並ぶ井神凉、そして三人の少女たちを見据えた。
壇上の異様な光景を見上げる彼らの佇まいには、微塵の動揺もない。嵐田たちの謝罪すら、すでに読み終えた台本のページをめくるように、退屈そうに受け流している。
見事な手腕だ。だが、同時にひどく危うい。
大人を掌の上で転がし、自分たちの世界を守るためなら手段を選ばないあの四人を、決して見くびってはならない。
これ以上、彼らから目を離すべきではないだろう。
――いや。
私は学年主任として、かつてないほどの強い警戒心とともに、宮藤玲茄の静かに微笑む横顔を脳裏に焼き付けた。
――side. 井神 凉――
「いやー、臨時集会にはビビったけど、まさかこんな形であっさり片付くとはな!」
教室に戻るなり、隆一が俺の肩をバンバンと叩いて笑った。
「そうだね。まあ、しばらく面白おかしく噂する連中はいるだろうけど……真相はどうあれ、教師直々の否定と警告があったんだから、そのうちすぐに鎮火するよ。これで一件落着だね!」
白峰も、心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「ああ。二人とも、本当に色々と動いてくれて助かった。ありがとう」
俺が改めて礼を言うと、二人は照れくさそうに笑って、それぞれの席へと戻っていった。
(……これで一件落着、か)
――
放課後。
いつものように、俺たち四人は夕暮れの道を並んで歩いていた。
俺の隣を歩く茉依は、憑き物が落ちたように穏やかな顔で悠希と他愛のない会話を交わしている。それを、玲茄が微笑ましそうに見守っている。
昨日の朝から続いた嵐のような出来事が嘘のように、俺たちの"日常"は完全な形で戻ってきていた。
だが、俺の胸の奥には、黒い染みのような感情がこびりついて離れなかった。
俺たちが最後に見た嵐田よりも、さらに光の無くなった、死んだような目。
そして、玲茄との間で決着がついた、高良田の異様な怯え方。
悠希が論理で退路を断ったとはいえ、大人の男二人の精神をあそこまで完璧に破壊し、自分たちのための"防波堤"へと作り変えてしまった事実。
(玲茄は、高良田と嵐田に……一体何をしたんだ?)
俺はふと、前を歩く玲茄の背中を見つめた。
この美しく優しい少女の奥底には、俺のまったく知らない、底知れぬ狂気が隠されているのではないか。
そう考えると、背筋にぞわりと、言い知れぬ恐れのようなものが這い上がってきた。
「――凉?」
不意に、玲茄が立ち止まって振り返った。
夕陽を背に受けた彼女の髪が、風にふわりと揺れる。
「どうかしたの? 怖い顔をして」
俺を覗き込むその瞳は、純度100%の親愛と優しさに満ちていて。
先ほどまで俺の胸に渦巻いていた疑念や恐怖が、ひどく場違いなものに思えるほど、彼女の笑顔は美しかった。
「……いや。なんでもない」
「そう?」
玲茄はふふっと小さく笑い、太陽のような、何の翳りもない純真な声で言った。
「これでやっと、終わったね」
「…………ああ。そうだな」
俺は、自分の中に芽生えかけた黒い感情を、無理やり心の奥底に押し込んだ。
そうだ、終わったのだ。これで俺たちの日常は守られた。
彼女たちがどんなに歪でも、何を抱えていても、俺がこの手を離さないと決めたのだから。
茜色の空の下、俺たちは再び歩き出した。
不協和音の消え去った、俺たちだけの、"居場所"への帰路を。




