冷徹なる打算、あるいは傀儡の舞台
――side. 井神 凉――
昼休みに集まった空き教室の扉を開けると、そこにはひどく落ち着かない様子で室内を歩き回る白峰と、窓際で腕を組んで待機していた隆一の姿があった。
「井神くん! 悠希、茉依……!」
俺たちの顔を見るなり、白峰が弾かれたように駆け寄ってくる。
「どうだった? 嵐田先生と決着はついたの!?」
「ああ。悠希の読み通りだったよ」
俺が頷き、悠希が静かに「彼自身の言葉で、完全に退路を断ちました」と報告すると、二人は心底ホッとしたように、肺に溜まっていた息を深く吐き出した。
「マジか……。すげえな、お前ら。本当にあの嵐田を黙らせちまうとはな」
「証拠を揃えてくれた隆一と白峰のおかげだ。本当に助かった、ありがとう」
「いいってことよ。……ん? そういや、宮藤はどうした? 高良田のところに呼び出されてたんじゃ……」
隆一が室内に視線を巡らせる。
その時、廊下からコツン、コツンと、乱れのない規則正しい靴の足音が響いてきた。
扉の向こうから姿を現したのは、玲茄だった。
「ごめんなさい、待たせたかしら」
表情はいつも通りの、深い湖面のような静けさを湛えている。
「遅かったな。……大丈夫だったか?」
俺が尋ねると、玲茄はふわりと柔らかく微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ。高良田先生とは、とても建設的な"お話し合い"ができたわ。……それと、最後の仕上げをしてきたから。もう、何も心配いらないわ」
「最後の仕上げ?」
俺が聞き返すと、玲茄は「ええ」とだけ答え、それ以上は語ろうとしなかった。
「さあ、帰りましょう。私たちの居場所に」
玲茄の言葉に、俺たちは全員で頷き、空き教室を後にした。
――
六人で並んで一階の昇降口まで降りてきたところで、顔面を蒼白にし、ひどく思い詰めたような顔をした女性が歩み寄ってきた。
二年A組の担任、佐藤先生だ。
「あ……井神くん、みんな……。あのね……」
佐藤先生は、胃の辺りを押さえながら、なんとか俺たちを励まそうと言葉を探しているようだった。
だが、その言葉が紡がれるより先に、悠希が一歩前に出て、淡々と告げた。
「お気遣いありがとうございます、佐藤先生。ですが、あの件についてはもうケリはつけましたので、何の問題もありません」
「え……? ケリをつけたって、どういう……」
状況が呑み込めず呆然とする佐藤先生の前に、今度は玲茄がスッと歩み出た。
彼女は、佐藤先生の顔を真っ直ぐに見つめ、完璧な優等生の微笑みを浮かべた。
「先生の"胃痛の種"は、私たちが綺麗に摘み取っておきましたから。……明日の朝はぜひ、温かいコーヒーをゆっくりと召し上がってくださいね。では、さようなら」
「えっ……? コーヒー……?」
目を白黒させる佐藤先生を残し、俺たちは揃って昇降口の扉を抜けた。
夕日に染まる帰り道、玲茄がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、明日の朝、臨時の全校集会があるそうよ。だから、今日はみんなゆっくり休みましょう」
違和感など微塵もない、ごく自然なトーンだった。
白峰と隆一は「臨時集会? なんだろ」と首を傾げていたが、俺と悠希、茉依の三人は、その言葉の裏に隠された決定的な"終局"の気配を、確かに悟っていた。
――
隆一たちと別れ、家に戻った俺は、自室のドアを開けたままベッドに仰向けに倒れ込んだ。
リビングからは、三人が夕食の準備をし始めた微かな物音が聞こえてくる。この歪で、けれど俺たちにとっては世界で一番愛おしい"日常"。
目を閉じると、今日という一日の出来事が脳裏をよぎる。
大人の権力に抗い、教師という絶対的な強者に楯突いたという事実。
ふと、あの日――俺たちの運命が決まった、中学時代の記憶がフラッシュバックした。
――三家族での話し合いの場が開かれた、中学二年の秋。
その日の夜、俺は両親から思いがけない事実を告げられた。
中学を卒業したら、家族全員で海外へ引っ越す予定なのだ、と。
頭の中が真っ白になった。
俺がここを離れれば、ようやく繋ぎ止めた彼女たちの心は、今度こそ本当に壊れてしまう。
だから、俺は三人と離れることなんて絶対にできないと、両親の提案を強く拒んだ。
なにより――。
『あの子たちを残してなんていけない。一緒にいられなくなったら、あの子たちがダメになる。それに……僕も、ダメになる』
彼女たちを救うためだけじゃない。
これまで親に逆らったことなど一度もなかった俺が、なりふり構わず、必死に懇願した。
あの時、俺にはあれ以外の選択肢はなかった。
俺はベッドの上で、自分の手のひらを強く握りしめた。
始まりがどんなに歪でも、俺たちは俺たちのやり方で、この世界を生き抜いていく。
――side. 宮藤 玲茄――
凉の家で夕食をとった後、私は自分の実家へと戻ってきた。
「ただいま」
リビングのソファに腰掛ける母親に、私は形だけの、温度のない挨拶を交わした。
彼女は、私の方をまともに見ようともせず、ただ「おかえり」とだけ呟いた。
私は自室の扉を閉め、真っ暗な部屋の中で、ふぅ、と静かに息を吐いた。
そして、今日一日の最後の記憶を思い返し、暗闇の中で唇の端を吊り上げた。
――数時間前。放課後の化学準備室。
高良田を完全に屈服させた私は、その足で化学準備室へと向かった。
扉を開けると、そこには床に座り込み、抜け殻のようにうなだれている嵐田の姿があった。凉たちに論破され、自らの正義を粉砕された後なのだろう。
「……なんの用だ、宮藤」
焦点の合わない、濁った目で私を見上げる嵐田に、私は歩み寄り、彼と同じ目線になるようにゆっくりとしゃがみ込んだ。
「先生。凉たちに随分とひどい言葉をぶつけられたんですね。……でも、私は知っていますよ。先生が、本当に学校の風紀と生徒たちの未来を案じて、あのような行動に出たということを」
「お前……」
嵐田の目に、微かな光が灯る。自自分の歪んだ正義を、まだ肯定してくれる人間がいたという、縋るような光。
私はそれを優しく掬い上げ、私たちにとって都合の良い"偽りの救済"を囁いた。
「そこで、先生の愛する"正義"を全うする、最高に輝ける舞台があると言ったら――どうされますか」
「ぶ、たい……?」
「ええ」
私は、彼の耳元に唇を寄せ、その舞台のシナリオを優しく、甘く吹き込んだ。
嵐田はガチガチと歯を鳴らしながら、ただ力なく、その場に伏して泣き崩れた。
凉たちが折ったのは彼の"プライド"だ。だが、私は――
「……期待していますよ。先生の、正義の執行を」




