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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第四章 汚された盤面と、それを拭う冷たい手
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双局のチェックメイト 後編

――side. 井神 凉――


「……嵐田先生。一つだけ、確認させてください」


停学をチラつかせ、完全に場を支配したと思い込んでいる嵐田に対し、悠希が一歩前に出た。その声は、嵐田の熱を帯びた怒声とは対極にある、絶対零度の響きを持っていた。


「なんだ?」

嵐田は苛立たしげに顎をしゃくる。


「先生は先程、私たちの関係を"教育の場を汚す害悪"と仰いました。では、あの匿名の張り紙についてはどうお考えですか? 生徒のプライバシーを侵害し、校内に混乱を招いたあの行為もまた、教育の場を汚す"悪"ということで間違いありませんか?」


「……当たり前だ」

嵐田は鼻で笑い、忌々しそうに腕を組んだ。

「事実無根ではないにしろ、あのような陰湿なやり方は感心しない。私なら堂々と正面から指導する」


「なるほど。では、もし仮に……あの張り紙を作ったのが"生徒"ではなく"教師"であった場合。それは、生徒を正しく導くべき教育者としてあるまじき、卑劣な罪だということですね?」


「……お前、何を言っている? 貴様、まだ私がやったと――」


「お答えください、嵐田先生」


悠希の言葉が、鋭い刃のように嵐田の言葉を遮った。


「これは"前提"の確認です。『誰がやったか』や『どんな理由があったか』は関係ありません。匿名の安全圏から生徒を社会的に貶める行為は、いかなる理由があろうと教師として絶対に許されない。……そう、明言していただけますか?」


嵐田の顔に、底知れぬ不快感と嘲笑が浮かんだ。

自分の正義を疑わない彼は、目の前の小娘の回りくどい質問を無駄な足掻きだとしか捉えていないようだった。


「ええい、しつこいぞ! 当然だろう! 隠れてコソコソと石を投げるような卑怯者は、教壇に立つ資格などない! それが答えだ、満足か!」


「はい。ありがとうございます」


嵐田が声を荒らげた瞬間。

悠希は、ひどく冷たく、残酷なほど美しい微笑みを浮かべた。


「これで、先生が後から『あれは生徒の将来を思っての教育的指導だった』などと、見苦しい言い訳をする道はなくなりました」


「……なに?」


「先生はご自身の口で、あの行為を『教壇に立つ資格のない卑怯者の罪』だと断言されました。もう、論点のすり替えはできませんよ」


悠希の言葉の真意を測りかね、嵐田の眉間がピクリと引きつる。


「……御託はいい。お前たちのような子供の戯れ言に付き合っている暇はないんだ。さっきから私を犯人に仕立て上げたいようだが、犯人扱いする確たる証拠があるなら、出してみろ! 出せないなら、今すぐ――」


「凉くん」


悠希の静かな合図。

俺は無言でポケットから、一枚の折り畳まれたA4用紙を取り出した。白峰から送られてきた証拠画像を、あらかじめプリントアウトしておいたものだ。


俺はそれを、嵐田の目の前のデスクに、パンッ、と乾いた音を立てて叩きつけた。


「な……っ!?」


デスクに叩きつけられた紙を見た瞬間。

嵐田の顔から、すべての血の気が引いた。


そこに印刷されていたのは、事務室のサブプリンタのネットワーク詳細ログ。

送信元端末名:『PC-ARASHIDA』の文字。


「……どう、して」

嵐田の喉から、掠れた声が漏れる。

「事務室のログなど、生徒が見られるはずが……! しかも、私は教員としてではなく、ネットワークから匿名で……」


「『匿名でアクセスした』。今、そう言おうとしましたね?」


悠希が、すかさず冷酷なトドメを刺した。

嵐田はハッとして口を抑えたが、もう遅い。彼は動揺のあまり、自ら罠の存在を認めてしまったのだ。


「あ、ああ……違う、これは違う! 私は、お前たちを正しく導くための"荒療治"として……!」


「"荒療治"?」

悠希は、氷のように冷たい声で嵐田の言葉を切り捨てた。

「先生はたった数分前、ご自身の口でこう断言されましたよ。『いかなる理由があろうと、隠れてコソコソと石を投げるような卑怯者は、教壇に立つ資格などない』と」


「……っ!」


「それが答えだと、ご自身で仰ったじゃないですか。……自分の掲げた正義のルールすら守れない大人が、どの口で私たちを導くと言うんですか」


ぐうの音も出ない正論。嵐田の唇がわなわなと震え、何かを言い返そうと空気を求める金魚のように口をパクパクとさせた。


――だが、長年教壇で権力を振りかざしてきたプライドが、彼に無様な反撃を絞り出させた。


「ふ、ふざけるな……! そもそも、事務室の機密ログを生徒が勝手に盗み出すなど、明らかな不正行為だろうが! 端末情報を抜き出すなど、不法侵入か、ハッキングか!? 張り紙の件はともかく、お前たちのこの犯罪行為は絶対に許されん! 今すぐそれを渡せ! さもなくば警察に――」


「張り紙の件は『ともかく』、ですか」


激昂する嵐田に対し、悠希は心底見損なったというように冷たい目を向けた。


「……本当に、予想通りの"論点のすり替え"ですね。ですが、無駄です。先生のその威圧は、すでに先生自身の言葉によって価値を失っていますから」


「なんだと……っ」


「自分の卑劣な罪を棚に上げて、生徒のルール違反だけを声高に責める大人の言葉など、誰も聞きはしませんよ。……それが、先生の言う"指導"ですか?」


嵐田の顔面が、今度こそ完全に蒼白になった。

理屈も、権力も、威圧も通用しない。逃げ道を完全に塞がれた嵐田は、縋るように自らの歪んだ感情を吐き出した。


「お前たちの、その異常な関係が……取り返しのつかない破滅を招くから……私は、過去の経験からそれを……!」


「俺たちが破滅するかどうかは、あんたには関係ない」

俺は、震える嵐田を見下ろして低く言い放った。

「あんたが過去に何を見てきたか知らないが、俺たちをあんたのトラウマの身代わりにすんな。あんたがやったのは教育でも正義でもない。自分の理解できないものを、安全圏から泥を投げて壊そうとしただけだ」


「ちがう、私は……私はただ……」


「あんたはさっき、俺たちを停学にすると言ったな。……やれるもんならやってみろよ」


俺は自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップして見せた。

そこには、先ほどからの会話を記録し続けている録音アプリの波形が表示されていた。


「この印刷ログの画像と、あんたが自分で『匿名でやった』と認めたこの録音データ。石川先生や校長、いや……理事会やSNSにばら撒かれたら、一体どっちが社会的に破滅するだろうな?」


「や、やめろ……それだけは……!」


大人の"権力"という唯一の盾を完全に剥がされ、自分の歪んだ正義を自分の言葉で否定させられた嵐田は、後ずさりし、パイプ椅子ごと床に崩れ落ちた。

先程までの威圧感は完全に消え失せ、そこには自分のちっぽけなプライドが崩壊し、ただ怯えるだけの惨めな大人がいた。


「あんたの正義は、ただの恐怖だ。理解できないものを壊すしかない人間のな」


――時計の針が、放課後の静寂の中でカチリと音を立てる。


「二度と、俺たちに関わるな」


俺の決定的な宣告に、嵐田はただ、虚ろな目で首を縦に振ることしかできなかった。



――side. 宮藤 玲茄――


私の冷え切った宣告に、高良田は屈辱で顔を赤黒く染め上げた。

「み、見くびるな! 私は教師だぞ! 君の将来など、私の報告一つでどうにでも――」


「どうにでもなる、ですか。……そうですね。"パパ"の言うことを聞かない悪い子は、すぐに見捨てられちゃいますものね」


「な、にを……ッ」


「ああ、失礼しました。学校では"先生"と呼ぶべきでしたね。裏の匿名アカウントのやり取りが面白くて、つい」


私がスマートフォンの画面を見せると、高良田の怒鳴り声が、まるで喉を締め上げられたようにピタリと止まった。


そこには、『大人と秘密の時間を楽しめる女子高生募集』という、高良田の裏アカウントのプロフィール画面が表示されていた。


「……先生、用心深いから学校のWi-Fiなんか絶対に使いませんよね。履歴の消去もマメですし。でも、ご存知ですか? 相手の端末に残ったスクリーンショットまでは、決して消せないんですよ」


私は立ち上がり、凍りついたように動けない高良田の周囲を、滑るように歩く。


「……半年ほど前でしょうか。随分と気前の良さそうな"パパ"がいらっしゃったので、私も暇つぶしに"サナ"という名前でメッセージを送ってみたんです」


「サナ……!?」


高良田の顔が、さらに蒼白になる。

無理もない。半年前、彼が下劣な欲望をむき出しにして、毎日のように甘い言葉を囁き続けた相手だ。結局一度も会えず、焦らされた挙句に音信不通になったあの"都合のいい女子高生"の正体が、今目の前にいる自分自身の生徒だったのだから。


「ええ、そうです。とても、教育の場では口に出せないような下劣な"言葉遊び"の羅列でしたね。私の端末には、先生のその生々しい要求のすべてが、消去不可能な形で保存されていますよ」


「う、嘘だ……あのサナが、君なわけが……っ」


「ええ。嘘かもしれません。単なるハッタリかもしれない。……確かめてみますか?」


私は彼の耳元に顔を寄せ、甘く、毒を含んだ声で囁いた。


「私のスマートフォンには、今この部屋に入ってからの、先生の心優しい会話の録音データと、あの"サナ"との赤裸々なメッセージ履歴が入っています。これを今すぐ、理事会の知人に送信できるようセットしてあります。……私の指先一つで、先生の築き上げてきた"絶対的な安全圏"は、一瞬で社会の泥濘に沈みますね」


高良田の額から、滝のような脂汗が流れ落ちた。

彼の足が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを、私は冷酷に見下ろした。


「怯えなくていいのよ、先生。私は優しいから、選択肢をあげる」


私は彼のネクタイを指先でそっと引き寄せ、完璧な女王の笑みを浮かべた。


「先生はさっき、私の『言う通りにしていれば安全だ』と教えてくれましたよね? ですから、今度は私が先生の安全を守って差し上げます」


言葉の意味を理解し、高良田の顔が絶望に歪む。


「すべてを失って社会から消えるか。……それとも、これからは私の忠実な"犬"として、私たちの邪魔をするものを嚙み殺すか。先生なら、どちらがより"安全"で"旨味"があるか……正しく計算できますよね?」


「わ、わかった……! 君の、君の言う通りにする! だから、それだけは……!」


床に這いつくばるようにして懇願する高良田。

その醜い頭頂部を見下ろしながら、私は満足げに目を細めた。


「先生。凉には、今日のことは『親身に相談に乗ってくれた』と伝えておきますね。これからも、良い先生でいてください」


「……あ、ああ……」


絶望に染まった返事を聞き届け、私は密室の鍵を開けた。


不協和音は鳴り止み、再び無菌の静寂が降り積もっていく。

私たちの"居場所"を脅かす理不尽は、私がすべて解体してあげる。


――さあ、早くこの泥を洗い流して、凉の待つ場所へ帰らなくちゃ。

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