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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
25/72

完璧な準備、完璧な演技

――side. 井神 凉――


母さんが帰国する、当日の午前。


俺たちの家は、不自然なほどの清潔感に包まれていた。

リビングの床には埃ひとつなく、クッションの皺まで完璧に整えられている。

玲茄と茉依が主導した"迎撃準備"は、ほぼ万全だった。


元々、玲茄の徹底した管理のおかげで隅々まできれいに保たれた家だが、今はどこか、モデルハウスのような"生活感のなさ"さえ漂っている。


「……よし」


小さな、けれど切迫した声が聞こえた。

ソファの横で膝をついている悠希が、ローテーブルの脚を磨いている。

手には白いクロス。彼女はテーブルのガラス面ではなく、その下の、普段なら誰も気に留めないようなステンレスの接合部を、執拗に擦っていた。


「悠希」


俺が声をかけると、彼女の細い肩がビクリと跳ねた。

振り返った彼女の瞳は、俺を見ていない。俺の後ろにある何か――あるいは、脳内に焼き付いている誰かの視線を追っているようだった。


「もう十分だよ。そこは、さっきも拭いていただろ」


「……ううん、まだ。まだくすんでるの」


悠希は首を横に振る。その動きは機械的で、どこか壊れた玩具を連想させた。

爪の先が白くなるほど強くクロスを握りしめ、何度も、何度も手を往復させている。


「お母様は、こういうところを一番に見るの」


カサついた声が、静寂に落ちる。


「私たちが、甘えていないか。怠惰になっていないか。……その確認を、されるから」


悠希にとって、俺の母親は"支援者"ではない。

彼女をこの家というシェルターに留め置くか、あるいは荒野へ放り出すかを決める、絶対的な"裁定者"だと思い込んでいる。


今年の正月に、両親が一時帰国したときのことを思い出す。

あの時も、悠希は怯えていた。けれど、ここまでではなかった。


母さんは、"監察官"の顔と、"井神凉の母親"の顔を完全に切り替えて三人に接する。

玲茄と茉依は、それをゲームのルールのように認識し、割り切って関係を築いている。

だが、悠希にはその境界線が見えていない。母さんの発した言葉、視線、沈黙、その全てが"生存資格"を問う審判だと思ってしまっているのだ。


夜中に一人で考え込んでいた姿。

翌日、寝不足の顔を心配されたときに見せた凍りついた表情。

そうした些細な記憶の蓄積が、今の彼女をここまで追い詰めている。


俺は悠希のそばに歩み寄り、その震える手に自分の手を重ねた。

冷たい。氷のように冷え切っていた。


「大丈夫だ。俺たちは何も間違ったことはしていない。いつも通りでいいんだ」


「……凉くん」


悠希がようやく、焦点を俺に合わせた。

けれど、その瞳の奥にある怯えは消えない。


「いつも通りじゃ、ダメなの。完璧じゃないと……私がここにいる理由が、なくなっちゃう」


その言葉に、俺は息を呑んだ。

俺の慰めの言葉など、彼女が抱く根源的な恐怖の前では、あまりに無力だった。


「――お待たせ。どう、変じゃないかな」


リビングのドアが開き、空気が動いた。

入ってきたのは、玲茄と茉依だ。

二人を見て、俺はまた、この空間の異質さを思い知らされることになった。


玲茄はいつものショートパンツや派手なロゴTシャツではなく、淡いベージュのブラウスに膝丈のスカートを身につけている。

髪も丁寧にブローされ、首元にはパールのネックレスが光っていた。

茉依も同様だ。いつもの彼女の雰囲気とは真逆の、紺色のワンピース。背筋を伸ばし、両手を前で揃えている姿は、どこかの名家の令嬢のようだ。


「……完璧だよ。二人とも」

「でしょ? 智里さんに久しぶりに会うんだもん、これくらい武装しないとね」


玲茄は悪戯っぽく笑ってみせたが、その目は笑っていなかった。

彼女たちもまた、戦闘態勢に入っている。


"井神凉の同居人"として、一切の非難を浴びないための擬態。

それは、俺たちが積み上げてきた"名前のない関係"を、社会的に許容される"健全な同居生活"というパッケージに押し込める作業だった。


「お茶出しの手順、確認しておこうか」

玲茄が冷静な声で言った。彼女は頭に入っているタイムテーブルを口にする。

「智里さんが到着されたら、まず玄関で出迎えて、荷物を預かるのは茉依。リビングへの誘導は私。凉は、お母様の正面に座って。悠希はお茶を――」


「私が、淹れます」


悠希が立ち上がり、遮るように言った。

その声には、悲壮なほどの決意が滲んでいた。


「お茶菓子は、駅前の和菓子屋さんのものを用意しました。お湯の温度も、茶葉の量も、練習通りにやります。だから……私にやらせて」


役割を持たなければ、ここにいてはいけない。

そう言いたげな悠希を、玲茄は静かに見つめ、そして小さく頷いた。


「わかった。お願いね、悠希」


四人は、リビングの所定の位置についた。

普段なら、俺がソファの真ん中に座り、玲茄がその足元に座り込み、茉依と悠希が両隣で寄りかかっている場所。

今は、全員が背筋を伸ばし、等間隔を開けて座っている。


まるで、舞台の幕が開く直前のような緊張感。


俺たちは、互いに目配せをした。

準備はいいか。綻びはないか。俺たちの"楽園"を守るための準備はできているか。


時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。


カチ、カチ、カチ。


悠希が、膝の上で握りしめた拳を、反対の手で必死に抑え込んでいるのが視界の端に見えた。

俺が声をかけようとした、その時だ。


『ピンポーン』


無機質な電子音が、静まり返ったリビングを切り裂いた。

悠希の肩が跳ね、茉依が息を止める。玲茄がスッと立ち上がり、玄関へと向かう姿勢を取る。


俺たちの日常が終わる音がした。


俺はゆっくりと立ち上がり、強張った気配を背に受けながら、玄関へと足を向けた。


「行こう。母さんが待ってる」

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