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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
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来訪者は、微笑まない

 ――side. 井神 凉――


 玄関のドアが開く音は、予想していたよりも遥かに軽かった。

 重厚な金属音ではなく、乾いたクリック音と、蝶番が滑らかに回る音。

 それだけで、外の空気が流れ込み、家の温度がわずかに書き換わる。


 壁が、音を返さなくなった。


「――ただいま。凉」


 最初に聞こえたのは、懐かしくもあり、同時に俺の背筋を条件反射で凍らせる、あの低いアルトの声だった。


 井神智里(いがみちさと)

 俺が中学生の頃は日本に居たが、高校入学後は父さんと共に海外支社を渡り歩き、数ヶ月に一度、抜き打ちの監査のように帰宅する――俺の母親だ。

 ドアの前に立つ彼女は、長時間のフライトの後だというのに、チャコールグレーのジャケットに皺ひとつ寄せていなかった。

 乱れのないボブカット。疲労の色は見えない。ただ、到着という事実だけがそこにあった。


「おかえり、母さん」


 俺の声は、意識して作ったせいで少し硬くなったかもしれない。

 母さんは俺を一瞥し、短く頷く。

 それだけで、俺の身長や顔色、健康状態のスキャンを終えたようだった。


「お久しぶりです、智里さん」


 玲茄が、花が咲くような笑顔で出迎える。

 対人用に整えられた表情。

 だが母さんは、その表面をなぞることなく、瞳の奥だけを覗き込んだ。


「元気そうでなによりよ、玲茄さん。相変わらず、華やかね」

「ふふ、智里さんにそう言っていただけると嬉しいです」


 声色は柔らかい。だが、母さんはもう視線を外していた。


「おかえりなさい、智里さん。荷物お預かりしますね」


 茉依は流れるような所作で、母さんの手からキャリーケースのハンドルを受け取った。

 媚びへつらうわけでもなく、優秀な秘書のような実務的な動き。

 母さんは茉依を見て、口の端を数ミリだけ上げた。


「ありがとう、茉依さん。……髪型変えたのね」

「はい。こっちの方が合うかなーと思って」

「そう。似合ってるわ。顔つきも、以前より落ち着いたわね」


 母さんは、一度だけ頷いた。


 完璧な挨拶。理想的な応対。


 だが――


 一番奥に控えている悠希だけは、すぐ言葉を発することができなかった。

 両手を前で組み、深く頭を下げる。その角度、静止する時間。すべてが練習通りだが、頭を下げたままの彼女の首筋が、微かに脈打っているのが見えた。


「……おかえり、なさい、お母様……」

 無理やり絞り出したような、かすれた声が響く。


「……ええ。ただいま、悠希さん」

 母さんは悠希にはそれ以上声をかけず、ただその頭頂部を一度だけ見て、靴を脱ぎ捨てた。


「上がるわね」


 リビングまでの短い廊下が、泥沼のように重く、遠い。

 玲茄を先頭にして歩く母さんの足音は、吸い込まれるように静かだ。

 俺たちは測ったような距離を保ち、無言でその背中を追った。


 リビングに入った瞬間、母さんの足が止まった。

 彼女は部屋の中央に立ち、ゆっくりと視線を巡らせる。

 磨き上げられた窓ガラス。埃ひとつないフローリング。雑誌の角が揃えられたラック。そして、気配を殺して直立する俺たち四人。


「……綺麗ね」

 母さんがぽつりと呟いた。

 それは称賛の言葉だったはずだ。だが、その声には温度がなかった。


「四人の高校生が暮らしている部屋とは、思えないほど」


 その一言が、鋭利な針のように俺の胸を刺した。

 "生活感がない"と言われたのではない。もっと別の何か――不自然なほどの統制を見抜かれた気がした。


「座りましょうか」


 彼女はソファの背もたれに指を這わせ、そのまま座ることなく、ダイニングテーブルの方へ歩み寄った。

 俺たちは指定されていた席に着く。

 俺は母さんの正面。玲茄たちは、俺を挟むように左右へ。


 母さんが席に着くと同時に、悠希が動いた。

 キッチンからトレイを持ってくる。

 白磁のティーセット。湯気からは、高価なダージリンの香りが立ち上っている。

 悠希の歩みは慎重だった。慎重すぎて、スローモーションのように見えた。彼女は母さんの右側から、ソーサーを差し出す。


 カチャ。


 カップとソーサーが触れ合う音が、静寂の中で不自然に響いた。

 ほんのわずかな接触音。普段なら誰も気にしない程度の音だ。けれど、悠希の指先が極限まで緊張していることを証明するには十分だった。


「……失礼しました」


 悠希の顔から血の気が引いている。彼女はトレイを胸に抱きかかえるようにして、逃げるように自分の席へ戻った。

 母さんは何も言わない。ただ、湯気を立てる紅茶をじっと見つめ、それからゆっくりとカップを持ち上げた。


 一口、口に含む。


 その数秒間、俺たちは誰も呼吸ができなかった。

 悠希は膝の上でスカートの生地を握りしめ、判決を待つような目で母さんを見つめている。

 カップがソーサーに戻される。


「美味しいわ」


 母さんは短く言った。悠希の肩が少し下りたのがわかった。


「茶葉の蒸らし時間も適切ね。……ただ」


 母さんの視線が、悠希を射抜いた。

 鋭い眼光ではない。研究者が、顕微鏡の下の検体を観察するような、純粋で無機質な瞳だ。


「少し、お湯の温度が高いかしら。淹れる人の焦りが出ているわね」


 悠希が息を呑む音が聞こえた。味ではなく、心を見透かされた。

 母さんはカップの縁を指でなぞりながら、俺たち四人をゆっくりと見渡した。


「それで? ずいぶんと『良い子』に暮らしているようだけど」


 母さんは微笑まない。

 その表情は、海外でのビジネス交渉の場で見せるものと同じ、合理的で、冷徹な"監査官"の顔だった。


レポート(報告)を聞かせてもらえるかしら。この"箱庭"の維持コストに見合う成果が、出ているのかどうか」


 その瞬間、この空間の主が誰なのか、改めて確定した。

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