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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
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白紙の重み

第三章スタートします。

 ――楽園は、いつも突然終わるわけじゃない。

 終わりが決められたまま、何事もない顔で続いていく。



 ――side. 井神 凉――


 教室の天井で、エアコンが乾いた低音を立てて動いている。

 吐き出された冷気が、配られたばかりのプリントの端を小さくめくった。


『進路希望調査票』


 その無機質なタイトルを眺めていると、脳の奥を直接氷で撫でられるような錯覚に陥る。

 下に広がる広大な白紙の記入欄は、鋭い拒絶のように俺の視界を刺した。


 第一志望。第二志望。

 その先に続くはずの"未来"という言葉に、血が通っていない。


 斜め前では、玲茄が頬杖をつきながら、迷いのない手つきでペンを走らせている。

 茉依と悠希も、時折視線を交わしながら、あらかじめ決めていた文字を書き込んでいくのが分かった。


 四人、同じ大学。

 学力も、判定も、そのための努力も。俺たちに不足しているものは何もない。

 そこにあるのは、この"日常"をただ延長させるだけの、平坦で幸福な道だ。


 そのはずだった。


『約束が守られているかどうか、直接確認させてもらうから』


 脳裏に再生されるのは、母さんからの、短く、過不足のないメッセージ。

 それは慈愛でも干渉でもなく、ただの"検品"の通告だった。


 俺がこの三人と一緒にいることを、親たちが容認しているのは、決して放任などではない。

 中学のあの頃、家庭という密室で壊れかけていた彼女たちを、俺が"救った"こと。親たちの間に入り、この歪な共同生活を認めさせたこと。


 大人たちにとって、俺たちの関係は純粋な絆などではない。


 この歪な四角形は――


 俺という、"管理責任者"のもとで運用されている、期間限定の"箱庭のような実験場"なのだ。



 ――


 なにかが、足りない。

 なにかが、わからない。


 あの二泊三日の、あの夜の熱が、一瞬だけ肌を掠めた。

 言葉にできないものを、言葉にしないまま繋ぎ止めた、あの逃げ場のような体温。

「わからなくていい」と彼女は言った。


 その優しさは、同時に俺の思考を停止させる麻薬でもあった。

 あの時感じた、肺が焼けるような言いようのない焦燥。

 あれは、今日という日の訪れを予期していた生存本能だったのかもしれない。


 凪いでいたはずの日常の底で、得体の知れない楔が、音を立てて深く突き刺さった。


「……凉?」


 静かな声が、俺の思考を断ち切った。

 顔を上げると、いつの間にか書き終えたらしい玲茄が、椅子に背を預けてこちらを見ていた。


 薄褐色の肌に落ちる長い睫毛の影。

 その瞳は、俺の手元にある真っ白な調査票を射抜くように見つめ、それからゆっくりと、俺の目へ戻ってきた。


「書けない?」


 玲茄の声は、どこまでも穏やかだった。他の生徒には聞こえない、遮断された二人だけの距離。


「……いや。すぐ書くよ」


 俺は無理に指先に力を込めようとしたが、ペン先は紙の上で虚しく静止したままだ。


 俺は彼女たちを救ったつもりでいて、その実、彼女たちの"存在意義"という重力に囚われているのではないか。

 彼女たちが俺を必要とする限り、俺は"管理者"という役割から降りることは許されない。


 玲茄は何も言わず、ただじっと俺を見守っている。

 その視線は優しく、同時に、この無邪気な日常が有限であることを突きつける残酷さを孕んでいた。


「……大丈夫。まだ、時間は残ってるから」


 彼女が小さく囁く。

 その言葉が、俺の胸の奥にある"わからない"という感情を、さらに深い場所へと押し流した。


 窓の外、空の色がわずかに翳り始める。

 俺は一つ、重い息を吐き、ようやくペンを紙に押し当てた。


 三人の志望校と同じ、その名前を書き込んでいく。

 それは、未来を決めるための一歩ではない。

 終わりの予感を抱えながら、それでもなお、この場所にしがみつくための、虚しい抵抗の証だった。


 ――親と交わした、"三つの約束"を反芻する。


 秋の足音が、すぐそこまで迫っていた。

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