海は、静かに月を映す
――side. 井神 凉――
夜。
別荘の周囲は、深い静寂に包まれていた。
昼間の海はあれだけ騒がしく、暴力的な熱を持っていたというのに、今は絶え間なく打ち寄せる波の音すらどこか遠い。
文字通り、全力で海を満喫した。
周囲からの無遠慮な視線は相変わらずあったが、俺たちにとっては大した問題じゃない。開け放たれた窓ガラスの向こう、真っ暗な海には、今日の熱気と心地よい疲労感の余韻がかすかに残っている気がした。
広いリビングには、六人全員が集まっていた。
それぞれ好きな体勢で、ただ緩やかな時間を共有している。
俺と玲茄、隆一の三人は、スマホの画面を覗き込みながら明日の大まかな予定を再確認。
茉依、悠希、白峰の三人は、海で撮影した写真をスワイプしながら話に花を咲かせている。
壁掛けのテレビはついているが、その内容を真剣に見ているやつは一人もいない。
こういう無目的で満たされた時間が、今の俺たちにはちょうどよかった。
――
話がひと段落したタイミングで、隆一が立ち上がった。
「そろそろ風呂にしようか。先に女子、四人で入ってきな」
彼なりの、当然の配慮のつもりだったのだろう。だが、四人の女子たちは一斉に顔を見合わせた。
「隆一、あんた何言ってんのよ」
「ゆーかちゃんと二人で入ってきなよー」
「……洗いっこすればいいんです」
「そういうわけだから、行くよ隆一!」
隆一は最初こそ「いや、お前ら先でいいって」と渋っていたが、白峰に腕を引かれ、女子三人に背中を押される形で脱衣所へと連行されていった。
明日の夜は、少し足を伸ばして近くの温泉施設に行く予定だ。
そこでは当然、男女に分かれるのだから、貸切の今日くらいは一緒に入れ、ということらしい。
「……じゃんけんは無しか」
誰に向けるでもなく、呟きがこぼれた。
――
リビングには、俺たち四人だけが残された。
その瞬間だった。
ほぼ三人同時に動き出し、ソファに座る俺の両隣と、足元の正面の隙間が、ぴったりと埋まる。
言葉での確認すらない。磁石が引き合うような、ほとんど反射みたいな流れだった。
「今日、すごく楽しかった」
「泳ぎ過ぎてクタクタだよー。りょーくん、お風呂で肩揉んで」
「……とてもいい形の流木を見つけました」
密着した三人が、口々に今日の思い出を言葉にする。
皆で共有しているように聞こえるが、これは違う。それぞれが"俺に向けて"今日の報告をしているのだとわかる。
「明日も、楽しもうな」
そう言って、俺は両手を使って三人の頭を順番に撫でた。
二人が風呂から出るまで、まだ少し時間がある。
窓から見える夜空には、白い月が淡く光っていた。
――
しばらくして、二人が風呂から上がってきた。
「広くて良いお風呂だったよ。四人でも十分広いと思う」
白峰は濡れた髪をタオルで拭きながら、隆一から牛乳の入ったコップを受け取る。
「風呂からも海が見えるぞ。周りからは絶対見えない造りになってるから安心しろ」
隆一はそう言うと、冷蔵庫から出した牛乳パックにそのまま口を付け、喉を鳴らして一気に飲み干した。
――side. 白峰 優花――
心地良い夜風が、火照った頬を撫でる。
隆一とボクの部屋。その奥にあるバルコニーに出ると、昼間とは違う、静かで冷たい海の匂いがした。
隆一は手すりに寄りかかり、黙って外の暗闇を見つめている。
ボクもその隣に立ち、夜空に浮かぶ月を見上げた。
階下では今頃、あの四人が一緒にお風呂に入っているはずだ。
普通に考えたら、同級生の男女が一緒にお風呂に入るなんて、異常な状況だ。
ボクと隆一の間には、彼氏・彼女という"明確な線"がある。
友達、恋人、家族。人間は、その関係性に強弱の差はあれど、必ず名前をつけて線を引きたがる生き物だ。いや、線があることが前提で社会は回っている。ひどく曖昧な関係にだって、そこには見えない境界線が引かれているものだ。
でも、あの四人の間には、一切の"線"がない。
それは社会的には到底理解されず、忌避される対象。
マイノリティという言葉で括ることすら難しい、完全な異物だ。
だが、あの四人は、そのいびつな関係を隠さない。隠す気がないのだ。
自分たちが異質であるという認識は、間違いなく持っている。それでも、開き直りや若さゆえの逆張りで顕示しているわけでもない。
"私たちは、こういう形だから"。
それはもう、一種の悟りにすら近い在り方だった。
ただ、それゆえに、危うさも孕んでいる。
今日の、ビーチでのナンパ野郎の件なんかもそうだ。
隆一と井神くんの阿吽の呼吸と機転によって、あの場はただの喜劇と化した。
だが、もし、あの場にあの四人しかいなかったら。
井神くんは、常にその場所、その状況でとれる"四人を守るための最善"を狙おうとする。
彼はおそろしく頭が回り、そして、どこまでも冷酷になれる。
もし今後、彼らに"常識"という名の暴力が向けられたとき。
もし、大人の理屈で、彼らの逃げ場が完全に封じられてしまったとき。
彼が、四人を守るために"何"を切り捨てるのか。
それが、ボクはとても恐いのだ。
――
どのくらいの時間、考えに耽っていたのだろう。
ふと気がつくと、隣に立つ隆一との距離が狭まっていた。
冷えはじめていたボクの心に、彼の大きくて確かな体温がゆっくりと移ってくる。
「……隆一」
「……なんだ?」
「ボクはね、あの四人が……大好きなんだ」
「……ああ。知ってる」
それきり、会話は途切れた。
このことについて、ボクたちが言葉にして深く語り合ったことはない。
でも、お互いの胸の奥にある"彼らを守りたい"という気持ちは、同じなのだと確信できる。
階下から、四人がお風呂から上がったであろう気配が微かに伝わってきた。
隆一も、その気配を感じているのが分かった。
彼は少しだけ足元へ視線を向けてから、暗闇に溶けるような声で言った。
「明日も、六人で楽しもう」
誰に聞かせるでもない、独り言みたいな優しい声。
「……そうだね」
ボクも、同じように答える。
夜風が、二人の間を穏やかに通り抜けていく。
「戻るか」
「うん」
バルコニーを離れるとき、ボクはもう一度、後ろを振り返った。
暗い海の水面には、夜空と同じ、欠けた月が静かに揺れていた。




