幕間:水底に届かない声
――side. 井神 智里――
滞在中のホテル。窓から差し込む日差しは高く、時間は正午を回ったところだった。
時差を考えれば、日本は夜の九時くらいだろうか。
今日、お義兄さんが主催する学校関係者のレセプションパーティーが行われ、そこに凉が参加することになっていた。
彼が自らの意思で、大人たちの社会に足を踏み入れた。その話を聞いたとき、私は改めて息子の成長を感じていた。
……決して"普通"とは言えない成長の仕方なのだが。それでも、だ。
これまでの異常な日々の軌跡を思い返しそうになったところで、手元のスマートフォンが震えた。
画面には、メッセージアプリの通話着信。相手は、お義姉さん――夫である和哉の姉であり、美琴の母である折崎美玲さんからだった。
「こんばんは。いえ、そちらはお昼ごろかな? ちさちゃん、元気?」
「お義姉さん、こんばんは。ええ、変わらずですよ。……今日はパーティーに急遽凉を参加させてもらって、ありがとうございました。無事に終わりましたか?」
「ええ、つつがなく。凉ちゃんと美琴は、遅くなる前に先に帰ったわ。それにしても凉ちゃん、大人顔負けね。あんなに立派になっちゃって、周りの大人たちもすっかり感心していたわよ」
お義姉さんの弾んだ声に、私は少しだけ胸を撫で下ろした。
「ご迷惑をおかけしていないか心配でしたが、大丈夫そうでほっとしました」
「全然よ。……でね」
ふいに、お義姉さんの声のトーンが、少しだけ意味ありげなものに変わった。
「さっき運転手から連絡があったんだけど。凉ちゃんを家に届ける予定が、そのまま美琴と一緒に、うちに行ったんですって」
「え……?」
「今日は私たち、このホテルに泊まるから。あの二人、家で二人きりでお泊まりするみたいよ? ま、美琴が誘ったんでしょうけれど」
一瞬、思考が停止した。
その直後、私の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
――あの年末の日、美琴が私の目の前で、事もなげにテーブルの上に"手帳"を置いた、あの時の光景が。
私が言葉に詰まっていると、電話口のお義姉さんは「ふふっ」と小さく笑った。
「そういえば今年の正月、ちさちゃんと和哉が一緒にうちを訪ねてきてくれた時に、この話をあえてしなかったんだけどね」
「この話……?」
「凉ちゃんの今の状況と、美琴の立ち位置のこと。私も夫も、全部わかってる上でなんだけれど」
彼女はそこで一度言葉を切り、そして、はっきりと告げた。
「私たちは、美琴に任せることに決めたの」
それは、親としての事実上の"黙認"宣言だった。
「あの子ももう成人しているし、自分の人生は自分で責任を持てる歳よ。親として見守りはするけれど、自分の思った通りにしなさいってね」
その言葉に、私は軽い目眩を覚えた。
「……あの子たちも、美琴も。なんでそんなに、凉に入れ込むのかしら」
気づけば、私はポツリとそんな本音をこぼしていた。
「あら。凉ちゃん、すっごく魅力的じゃない。私がそう思うんだから、美琴なんてベタ惚れね」
お義姉さんは軽い調子で笑い飛ばした。
そこからしばらく他愛のない雑談を交わした後、通話を切る間際になって、お義姉さんがからかい気味に言った。
「そうだ、凉ちゃんにテレビ通話してみたら? ……おそらくあっちの映像はオフになってるだろうけどね!」
「まさか」
私は苦笑いしながら、「帰国したらまた会いましょう」と言って通話を終えた。
……まさか、とは言ったものの。
私は迷った末に、凉のアカウント宛てにテレビ通話の発信ボタンを押した。
コール音が長く、長く続く。
やはり出ないか、と思ったその時、不意に通話が繋がった。
しかし、画面は真っ暗だった。お義姉さんの予言通り、凉の側は映像がオフに設定されている。
『……こんばんは、母さん。どうしたの?』
スピーカーから聞こえてきた息子の声は、どこか上ずり、微かに息が乱れていた。
そして――
『……んぅ……っ』
凉の声の後ろから、間違いなく、甘く掠れた女の声が漏れ聞こえてきた。
「……いえ。立て込んでいるようだから、明日の朝――こっちでは夜だけど、改めてかけなおすわ。……美琴によろしくね」
私はそれだけを告げて、通話を切った。
静寂が戻ったホテルの部屋で、私は深く、長く息を吐き出した。
色々な心配をしていたが……どうやら本人は、もう迷いを振り切り、あの"約束"に対する自分なりの答えを出し、足場を固めながら突き進んでいるようだ。
私は次の帰国のスケジュールをカレンダーで改めて確認しつつ、夫である和哉に電話をかけるため、再びスマートフォンの画面をタップした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回が最後の幕間エピソードとなり、次回から最終章をスタートいたします。
次回更新は、7月中旬頃を予定しています。
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