赤い彗星
神経を研ぎ澄ます。ユリアのように何キロも離れた場所から気配を察知するような真似はできないが、竜仁だって少しずつ成長している。指呼の間にまで近付けば、異質で禍々しいものの存在を感じ取ることができる。
間違いない、いる。
悪しき竜のかけらだ。
スイッチが入れられたみたいに、体が戦闘態勢を取り始める。竜仁は正眼に木剣を構えた。
読んで字の如く、木の剣だ。特別な仕掛けなどは一切ない。それがぼんやりと白く光り始める。臍下丹田に氣を練って、身の奥から引き出してきた霊力を、竜仁は今木剣へと流し込んでいた。それが淡い輝きとなって顕れているのだ。
「我が君、そちらに行きました!」
ひとけのない夜の通りの向こうから、澄んだ鋭い声が届く。ユリアだ。異世界から転生してきた聖騎士であり、竜仁のしもべとなってこの世界で人としての形を得た。
敵はかつてユリアの世界を滅ぼしかけた悪しき竜のかけらが魔物となったものだ。ユリアはその竜を打ち砕いた当人であり、故にかけらごときとは単独でも十分に戦えるはずだろう。
それでもあえて竜仁の方へ魔物を追い込んでいるのは、一つには竜仁に経験を積ませて鍛えるためであり、そしてもう一つは竜仁ならばできると思ってくれているからだ。
その期待と信頼に応えなければならない。
さあ来い……来た!
予想していたよりもかなり小さい。低く地を駆けてきた魔物は、そのまま走り過ぎていってしまうことなく、竜仁の手前で跳ね上がった。勢いよく飛びかかってくる。その姿をしっかと見定めようとして、竜仁は我知らず目を丸くした。
赤い。細長い。これってハイヒールか!?
驚きに掴まれながらもどうにか木剣を振り下ろし、だが少し前まで過剰に取り込んでいたアルコールが、視界と手元を狂わせる。
空振りだ。間髪を容れず、スコーン、とやけにいい音が夜のしじまにこだました。
靴底に顔面を直撃され、竜仁はひとたまりもなく後ろに引っ繰り返った。その上を赤いハイヒールが彗星のように飛んでいく。
「……我が君」
それはそれは深いため息が降ってきた。奇怪なハイヒールの魔物を追ってきた白金の髪の美少女が、道路に倒れた竜仁を瑠璃色の瞳で見下ろしている。
ユリアの呆れを通り越した哀れみの感情が心に刺さる。竜仁は跳ね起きた。未だ残る酔いのせいで目が回るが、そんなことを気にしてはいられない。
「ユリア、大丈夫だよ。僕に任せて。すぐに仕止めてみせるからさ」
爽やかにサムズアップしてみせる。ひどい無様をさらしたまま終了してしまったら、後に待つ鍛錬がきっと恐ろしいことになる。
けれどユリアは竜仁の勇ましさに感激したりはしなかった。道の先へ険しい視線を投げかける。
「いいえ我が君、どうやら私達が追う必要はなさそうです」
どうして、と尋ねようとして竜仁も気付いた。
ハイヒールが浮いている。地面に落ちるでもなく、そのまま飛んでいってしまうでもなく、空中に静止していた。
その向こう側に男が一人立っていた。瀟洒な黒のスーツに白のシャツを身に付け、ネクタイは締めていないものの、崩れた雰囲気はない。
宙に浮くハイヒールという超常現象を目前にしながら、男は驚いた気振りもなかった。武器らしきものは見えないが、ただ左手に短い棒を持っている。
いや違う。
男がそれを振ると、下端を中心として上端が弧を描いて広がった。扇だ。戦いの場にはおよそそぐわないような優雅な品が、不可思議な夜の陽炎のように揺らめく。
煽ぐというには速く、打ち込むというには遅く、男は扇を閃かせた。
白銀の風が吹く。邪悪な波動が吹き散らされる。奇怪な赤いハイヒールの形が崩れ、それが本来幻であることを明かすかのごとく、渦を巻いて消え去った。
男は元の通りに扇を閉じると、落ち着いた所作でジャケットの懐にしまった。
竜仁はただ唖然とするばかりだった。今のは何だ。あの男は何をした。いったい何者なのだ。
もちろん名前も素性も分らない。しかし見たこともない相手ではない。確かに前に一度会っている。
「貴方は……」
ユリアが呟くように口を開いた。竜仁と同様、見覚えがあるのだ。そのはずだった。あの場にはユリアもいた。黒犬の化け物を倒した時、鷹司と共に現れた男に違いない。
一流ホストもかくやという美形が、微かに笑む。だが一瞬後には冷たい無表情に変わると、ユリアに黙然と会釈をして、男は踵を返した。竜仁には最後まで関心を払わないままだった。




