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黒犬のフーガ

 所詮は街の中に作られた人工の緑地に過ぎない。自然そのままの山や森と比べれば箱庭のようなものであり、たとえふらふらとさまよい込んだとしても、命の危機に直結する可能性はごく小さい。

 しかし竜仁の神経は緊張で鋭く研ぎ澄まされていた。既に夜は深い。闇に潜む脅威を探り当てるには、通常の五感を超えた知覚が必要だ。


 竜仁はまるでレーダー装置か何かのように木剣を周囲に巡らせた。淡く霊光を引く切っ先が、やがてある一点でぴたりと止まる。

「いるな」

 暗がりに向かってわずかに唇の端を弛める。


「どうした? さっさと出て来いよ。それともびびってるのか?」

 相手は人ならざるものだ。言葉を解するか否かは定かでないが、おそらく挑発の意図は伝わっているはずだ。

 前方の茂みががさりと音を立てた。竜仁は木剣を握り直した。どれほどの化物が相手だろうと引き下がるつもりはない。堂々と正面から迎え撃ってやる。


「キャンキャン!」

「うわぁっ!」

 竜仁は飛び上がった。予定と全然方向が違かった。甲高い鳴き声を上げ、真っ黒い小犬が真横から飛び出してくる。


 ろくに狙いを定めることさえできず、ただやみくもに木剣を振り回す。だが当然のごとく空を切り、力みかえった上体が大きくぶれて、そのまま無様に引っ繰り返ってしまう。

 しかしこれまでの鍛練で竜仁は幾度となくはっ倒されてきた。自慢ではないが、受け身を取ることには慣れている。


「う……ひっ」

 それなのに起き上がることができない。苦痛ではなく恐怖のせいで小さく呻く。

 黒犬が竜仁の胸の上に乗っていた。見た目の通り、物理的には大して重くもないが、瘴気の類でも発散しているのか、ひどく呼吸が苦しかった。加えて間近で爛々と光る赤い眼が、抗おうとする意思を竦ませる。


 黒犬が口を開いた。ぞっとするような気配が漂い洩れる。血錆びた釘のような牙が、竜仁の喉首に突き立とうとして迫る。竜仁は必死で顔をそむけた。声に出さずに叫びを上げる。

 ――助けてユリア!


「せいっ」

 勇ましくも可憐な気合が闇を貫き響き渡った。竜仁を死の淵に追いやろうとしていた圧力が、その直後に綺麗さっぱり消え失せる。


「キャイン!」

 いかにも情けない鳴き声と共に黒犬は地面を転がった。見えない砲弾でも喰らったかのように、その横腹は大きく凹んでいる。


「……まったく」

 世にも美しい少女が、ようやく体を起こした竜仁のもとへと歩み寄る。夜にあってなお鮮やか瑠璃色の瞳が、澄んだ強い光を湛えている。竜仁は心からほっとした。


「ユリア、ありがとう。来てくれるって信じてたよ」

 少女はただの人ではない。巨大な竜をさえ討ち倒す力を秘めた、異世界から転生した聖騎士だ。小犬の化物の一匹や二匹など敵ではないに決まっていた。

 だが喜ぶ主にユリアは咎めるような視線を向けた。


「我が君、あの程度のものを相手に、余り残念な戦いをしないでください。正直言って私はいささか悲しくなってまいりました」

「う、ごめん」


 針でつつかれた風船みたいに竜仁の心がぺしゃんとしぼむ。自分だって自分なりに頑張っているのだ、という言葉は腹の底に呑み下す。別に口答えするのが怖いわけではない、こともないが、それよりユリアが本当に気を落としている風情だったからだ。


「いえ、私の方こそ、しもべの分際でご無礼を申し上げました。この過ちは体で償わせていただきます。早速今晩からご奉仕いたしますので、どうぞお覚悟のほどを」

「受けるのに覚悟が必要なご奉仕って……あんまり嬉しくないなぁ」


「遠慮は無用です。我が君の鍛練のお相手をきっちりと務めさせていただきます。もう二度と今回のような醜態をさらすことのないよう、血反吐にまみれるまで徹底的に責め抜いて……」

 ユリアは途中で口を閉ざした。竜仁がカタカタと震え始めたせいではない。

 腹をさらして倒れていた黒犬が起き上がり、唸り声を上げていた。




 取るに足りない小物に過ぎまい。ユリアは初めそう思っていた。もしも強大な存在であるとしたら、誰よりユリア自身が真っ先にその存在を感知していたはずだ。

 今回情報をもたらしたのは主である竜仁だった。とある公園に小さな黒犬の化け物が出没し、カップルが夜にいちゃついていると呪いをかけるという噂である。


 呪われると具体的にどうなるのか竜仁は語らなかったが、信憑性のある複数の実例があるらしい。

 もしもそれが悪しき竜のかけらに関わるものだとすれば、放ってはおけない。ユリアは竜仁を引き連れてその公園に向かった。


 噂は本当のようだった。弱いながらも確かに悪しき竜のかけらの気配があり、それを辿っていくと小さな黒犬の形を取った妖物がいた。

 だがやはりユリアが聖剣を振るうまでもない。おそらく戦闘力は普通の犬と大差ないだろう。実戦形式の鍛錬として、竜仁一人に任せても十分に討伐は可能だ。そう判断したのだが、甘かった。


 誤算は二つだ。

 一つめは竜仁だ。正直これほど戦えないとは予想外だった。今まで鍛えてきたのは徒労だったのかと軽く絶望したくなったが、それについては後回しだ。


 まずは二つめの誤算の始末をつけねばならない。

 ユリアは牙を剥く黒犬に視線を据えた。

 さっき竜仁を助けるために放った一撃は、ユリアの全力からはほど遠いものだった。それでも仕止めるのに十分の霊力を込めたつもりだった。だが悪しき竜のかけらから生じた妖物は未だそこにいる。完全にユリアの失態だ。相手を低く見積もり過ぎた。


「我が君、剣を」

「あ、うん」

「お借りします。それとこちらを持っていていただけますか」


 竜仁から木剣を受け取り、代わりに肩にしょっていたゴルフバッグを預ける。中には聖剣が入っている。しかしさすがに抜くつもりはない。

 自身の霊力によって木剣が白金の輝きを帯びる。ユリアは小癪な黒犬へ向けて構えた。闇に紛れて姑息に動き回るような真似はもはやさせない。

 強烈な気迫に触れた黒犬は、あっさりと虚勢を捨てた。即座に地面を蹴って身を翻す。


「逃がすか」

 ユリアは剣を振り上げた。身の内の霊力を瞬時に高め、衝撃波として撃ち出すべく振り下ろそうとして、しかし前に踏み込んだ足が思いがけずぐらついた。


 しまった!

 剣先がわずかにぶれる。悪しき竜のかけらを滅却する氣の塊が、妖物の体を掠めて過ぎる。

 黒犬はそのまま走り去ろうとした。だがユリアの一撃に触れた部分から体が急速に崩壊を始めていく。そして数歩を進む間には完全に形を失って、暗がりの中に溶けて消えた。


「やった、さすがユリアだ!」

 竜仁が無邪気な歓声を上げる。だがユリアはなおも意識を傾けて黒犬の姿を探った。目には見えない。気配も感じられない。今度こそやった、のか……?

 長く息を吐き出す。頭の奥が鈍く痛んでいる。今夜は変に疲れてしまった。


「これで万事解決だね。早く帰ってしっかり休もう。次の戦いに備えるためにも、頑張った体はいたわってあげないと」

 竜仁はユリアに優しい笑顔を向けた。だが微妙にわざとらしく見えるのは気のせいだろうか。さてはユリアの「ご奉仕」から逃れようという魂胆か。

「はい我が君、帰りましょう」

 だがユリアは小さく笑い返して頷いた。確かに休息が必要だった。

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