くちづけ
ユリアは浅い眠りから目を覚ました。昨晩は寝ついたのも大分遅かったから、身心ともに休息が足りていない。そのせいか、ひどく胸がざわついていた。まるで怖い夢を見た幼子のように、寄る辺なさに心が竦む。
だがユリアの魂には戦士としての誇りが刻まれている。すぐに気力を奮い起こし、意識を覚醒させて状況を確認、息が止まった。
「我が君……?」
寝具の片側が空だった。
俄然と胸騒ぎの意味が重くなる。まさか竜仁の身に良からぬことでも起きたのか。
跳ね起きた。パジャマ代わりのTシャツとスウェット姿のままで部屋を飛び出す。悪しき竜の波動は感じなかった。剣と鎧は置いていっても大丈夫なはずだ。
「我が君は……いた、向こうか!」
察知した気配は弱々しい。やはり何かあったのは確実だ。だが生きている。それならばどうとでもなる。どうとでもしてみせる。未だ払暁にまどろむ街を、ユリアは全力で駆け抜ける。
「我が君っ!」
毎日の鍛錬で使っている公園に、竜仁は倒れ伏していた。その傍らには木剣が転がっている。周囲に敵らしき者は見当たらないが、あるいは何らかの戦闘が行われたものか。
ユリアは飛びつくようにして竜仁の傍らに屈み込んだ。ぱっと目につく限り大きな外傷はない。だがそれは即ち無事ということを意味しない。攻撃対象を内側から破壊する方法なら幾通りもある。
ユリアは竜仁の体を調べ、ついで霊力と氣の流れを精細に観察したのちに、一つの結論を得た。
「……くっ、なんということだ」
がっくりとうなだれる。全身の力が抜ける思いだった。
「ただ疲れて気を失っているだけではないか。まったく、余計な心配をかけさせてくれる」
ほっと胸を撫で下ろしながらも、恨み言をこぼさずにはいられない。
「なぜこのような考え無しな真似をされたのです。ただやみくもに体を動かすだけでは上達は望めない。そのくらいお分りでしょうに」
それにこんな格好で倒れていたら、筋を痛めてしまうかもしれない。ユリアは竜仁を仰向けに寝かせ直すと、少しためらったすえに、頭を自分の膝の上に乗せた。汗と土埃で額に張り付いた髪を払ってやる。
「聞いているのですか、我が君?」
顔を寄せてそっと囁く。竜仁の目蓋が微かに動いた。だがそれだけだ。まだまだ起きそうな気配はしない。
「頑張ろうとするのは立派です。褒めてあげましょう。ですが無理はいけません。特に私のいないところでは……よろしいですね?」
言葉は返ってこなかった。その代わり、ユリアは竜仁に約束の印をつけた。触れ合いは淡くて短かった。今はそれで精一杯だった。
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唇が震えた。竜仁は声未満の吐息を洩らした。足りていない。半分が欠けている。あるべきものが離れている。
強く鋭く風を斬る音が鳴り渡り、さまよう心を引きつける。竜仁は自然と顔を向け、そのまま視線を奪われた。
ユリアが木剣を振っていた。縦に、横に、斜めに、ただひたすらに斬り下ろし、斬り上げる。派手やかで複雑な動きは一つもない。それでもその真っ直ぐな軌跡が、まるで光の虹が描かれるように宙に際立つ。
「……ああ、綺麗だ」
思いがそのまま言葉になった。途端、ユリアが凄い勢いで振り返る。目が合う。白皙の肌がみるみる赤くなっていく。
どうしたんだ。何か僕に怒っているのか?
思わず慄然としてしまう。だが逃げ出す隙は与えられない。木剣を手にしたユリアがつかつかと歩み寄り、竜仁をじろりと見下ろした。
「えっと、どうかした……?」
「我が君、いつまで寝ちぇいるつもりですか。もうとっくに朝の鍛練の時間じぇすよ!」
怒鳴られて竜仁は首を竦めた。
「ごめん。だけどそんな噛むほど怒らなくてもさ。なんか顔真っ赤だし」
「かんじぇませっ……んんっ、噛んでません。もちろん顔も赤くなってなどいません。なぜなら私には動揺すべき理由など何一つないからです。よろしいですね?」
「でも今まさに」
「今まさに、何か?」
「すいませんなんでもないです」
いそいそと起き上がった竜仁を、ユリアはなおも赤い顔で睨みつける。つられて竜仁の顔も赤くなる。なぜだか妙に恥ずかしかった。だけどそれでいい気がした。
(第二話 「くちづけ」 了)




