其の2
禍魂――少女を追っていた化け物。
舌なめずりをしてこっちを見ている。あれは獲物を見る眼だ。あいつには分かっているのだ。今の少女では自分に勝つことができないのだと。
瞬間、化け物がぐっと背を反らした。すると急激に禍魂の周りをエネルギーが包む。そしてそれが口先の一点に収束していく。
(――まずいっ! あれをやる気!?)
少女は自分の腕を持っている悼矢を見た。だが悼矢は窓の方に視線をやったままガクガクと震えているだけだ。
「避けて!」
「なんだよ……あれ……」
悼矢の視線の先。隣の家の屋根には見たこともない巨体のシルエット。あれが地球上の生物だっていうのか。いや、あれが生物であるはずがない。あんな残酷で残忍さを隠そうともしない紅い眼ができる存在が。
「避けろって言ってんのよ、このバカっ!」
少女が悼矢の横腹を蹴飛ばす。
「ぐがっ」
悼矢は蹴られてまた布団の山に顔から突っ込む。そして少女は悼矢と逆方向に跳んで倒れ込む。
その刹那。化け物が口をガパッと開け悼矢たちに向かって何かを吐き出した!
視界を光が覆い、少女と悼矢が立っていた場所を何かが駆け抜ける!
ィィィイズドゴォオオオオオンッ!
凄まじい轟音と土煙が舞う。
悼矢は布団から顔をあげてあたりを見回した。そして驚愕する。開いた口が塞がらないとはまさにこのことを言うのだろう。
まるでレーザー砲。窓は融解してどろどろになっていた。振り返ると廊下の方の壁にも穴が開いて、しゅぅ~~と白い煙がその穴から立ち昇っている。
もしあんなものを食らっていれば骨も残らず蒸発していたことだろう。
(お、おいおい……っざけんなよ……。なんだよ、これ……一体、何が起こってるってんだよ……!)
半ばパニックになって呆然とする悼矢。そんな悼矢に少女が起き上がって叫んだ。
「ちょっとあんた! ボケっとしてないでさっさと逃げなさい! 死にたいの!?」
そんなことを言われても動けるわけがない。蹴られた痛みもあったが、恐怖で体が動かないのだ。
ふと溶けた窓からの月光が遮られる。気づけばベランダに“それ”は移動していた。巨体の割りになんと軽やかな身のこなし。それはまるで猫の俊敏さを思わせた。
(ば、化け物……!)
その姿を肉眼で見て悼矢は息を呑んだ。
あまりにも動物的な肉体。身長は二メートルはあるだろうか。その筋骨隆々の体は人を殺すために研ぎ澄まされたものだ。頭には天にはむかうように反り返った二本の角。肉を噛み千切るのに秀でた牙。そしてその肉を引き裂くための鋭い爪。背中には首から腰にかけて一筋の黒い毛がぼうぼうと生え、さらにはふさふさの尻尾が生えている。その紅い眼は少女を見ていた。どうやら化け物の目的は少女らしい。
それもそうだろう。悼矢にこんな野生的な知り合いはいない。
少女の頬を一筋の汗が流れた。
(まずいわね……。こっちは痛手を負っているっていうのにお荷物つきだなんて戦いにくいったらないわ……。でも――)
「私は最強のエーテル……! ここでやられるほど落ちぶれてないわよ……!」
化け物が腕を一薙ぎした。
ズガァン!
それだけで壁がバラバラになって飛び散る。そしてそのぽっかり開いた穴から巨体が部屋にのっそりと入ってくる。
それに相対するは血が流れるお腹に手をあて、足取りさえ覚束ない少女。
悼矢の眼から見ても勝敗は明らかだ。おそらく少女は一撃で化け物に八つ裂きにされてしまうだろう。
化け物の口がにたりと笑みを作った。そしてよだれのしたたる鋭い牙がずらりと並んだ口を開いて人の言葉を発した。
「ぐるるぅ……鬼ごっこは終わりか? リタ=ルクライル……」
地の底から響いてくるような低い声だった。
リタと呼ばれた少女はぎりっと奥歯を鳴らす。そして化け物の言葉に抗うようにリタの体が発光しだした。
その仄かな赤色の光が徐々に輝きを増す。だがその光を見た化け物はハッと鼻で笑った。
「弱々しい光だな、ルクライル。その怪我がなければ俺といい勝負ができたかも知れないがな……グァッハッハ!」
「どうかしら? あんたにはこれで充分よ」
不敵な笑みで返すリタ。だがその言葉が強がりでしかないことは悼矢でさえ感じていた。
「グハハハ! ならば……確かめてみるか」
化け物が腕を振り上げる。
それだけで化け物の手が天井を貫いていた。バラバラと天井のクズが畳に落ちる。
「イデアに還れ。リタ=ルクライル」
轟ッ!
うなりをあげて振り下ろされる化け物の爪。人間があれを受ければ一瞬で肉塊へと変貌することになるだろう。その一撃をリタは顔の前にばつを作って受け止めた。
ズガアァァン!
畳がリタの足の型に凹み、パカッと割れた。
背の高い化け物が体重をかけるように少女を下に押さえつけようと力をさらに込める。
「っ……!」
それを見た悼矢は唖然とした。まるで特撮やアニメを目の前で見ているような状況。あまりにも現実離れし過ぎている。だがその現実感の無さが逆に悼矢を冷静にさせた。
(あの化け物……! なんてバカ力だ! あの女もバカ力だったが比じゃねぇ! 殺されるぞ! どうにかしないと……!)
化け物の攻撃はそれで終わらない。今度は横から薙ぐようにして左拳が繰り出される。
ゴォゥンッ!
それだけで辺りの土埃が巻き上がるほどの強烈な一撃。
だがリタは畳を蹴って後ろに退がることで左拳を避ける。
(素早さなら私の方が断然に上! なんとか避け続けて好機を呼び寄せるしかない……!)
しかし、リタはここが部屋の中だということを失念していた。化け物がリタに追撃を加えようと前に出ただけで――
(!? しまっ、退路がない……! 追い詰められた……!)
ぶわっとリタの背中に嫌な汗が噴き出る。
「ルクライル! これで終わりだアァ!」
化け物の強烈な右ストレートが放たれた。
本来ならその一撃でかたはつくはずだった。
「させるかぁ!」
ドンッ!
だがその時、あろうことか悼矢が化け物に体当たりをした。なんとかしなければならない、と考え思いついた方法が体当たりなのだから悼矢も自分で笑ってしまう。
これには化け物どころかリタも予想していなかった。人間が自分たちの戦いに割って入るなど非常識も甚だしい。それは恐竜同士の喧嘩に割ってはいるようなものだ。
化け物は不意を突かれたこともあってか、横から来たいきなりの衝撃にバランスを崩す。振るった右拳は標的を大きく反れてリタの背後にあった壁を突き破っていた。
(あのバカ……! だけど助かった!)
そのチャンスを見逃すリタではない。
「はあああぁぁっ!」
リタはすっと姿勢を低くすると、全力で畳を蹴ってバック転の要領で蹴りを放った。
そのムーンサルトは化け物の顎を直撃し、脳を揺らす!
「ぬぐぅ……!」
「もう一撃っ!」
リタはその場でくるりと体を横に回転させて後ろ蹴りを化け物の顔面に放つ。遠心力を利用した唸りを上げるリタの脚が化け物の顔面に直撃した!
ズガァン!
当たった瞬間に何かのエネルギーがぶつかりあったのか、光が弾け、一瞬部屋が白くなる。
化け物はよろめいて後ろに数歩下がる。だが頭を振ると意識がはっきりとしたのかニヤリと口を笑みに変えた。
「ククク、軽いねェ。お前が手負いじゃなく全力を出せていたらそれなりに効いたかもしれんが……」
「くっ……」とリタはお腹をおさえて膝をついた。
ポタポタ、と紅い血が畳を彩る。
(血の出がひどくなってやがる……! あいつ、もう限界だ……!)
とっさに悼矢はリタの前に立って化け物と対峙した。
「!? ちょっと、何してるのよ! 逃げろって言ったでしょ……!」
「おい、人間。なんのつもりだ?」
助けてるはずのリタからも文句を受けて悼矢は不気味な笑みになる。
「さぁてな……。こっちが訊きたいぜ。こんな人間離れした殴り合いを見て俺の頭がおかしくなっちまったのかもな……!」
なんてちゃかしてはみるものの悼矢の内心は恐怖と焦燥で渦巻いていた。それもそのはず。こんなまともじゃない状況にはち合うなんて誰が想像できただろう。ついさっきまで昼寝なんぞして日常の生活をしていたのだ。だっていうのに次の瞬間には自分が死んでもおかしくないこの状況。もうずっと足はがくがくと震えているし、背中なんて冷や汗でTシャツが張り付いている。
そのことに化け物もリタも気づいていた。
「……その勇気は認めてやる。褒美と言ってはなんだが楽に死なせてやろう」
「やれるもんならやってみろ!」
悼矢の足がぐっと踏み込まれる。
「だめっ! やめなさい!」
リタの声など無視して悼矢が化け物に飛びかかった。だが――
ズガンッ!
化け物が軽く腕を払っただけで悼矢は吹っ飛んで畳に転がった。
「あっ、あがぁ……っ!」
一撃だった。あまりに大きな力の差。
悼矢が畳で痛みに苦しみもがく。
だがそれは当たり前の結果。
水が下流へ流れるのと同じように当然のことだ。人間が禍魂を傷つけることなどできはしない。
それを見た禍魂が狂ったように笑う。
闇の中で赤い眼がギラギラと光を放っている。
「ハッハッハ! 脆い……! 脆いよなァ! 見たか、ルクライル? 軽く撫でてやっただけでこれだ!」
その言葉にリタは怒りの表情で禍魂を睨みつける。
「アンタの目的は私でしょう! そいつは無関係よ!」
「っ、誰が……脆いって……!?」
悼矢は腕を押さえながら立ち上がった。
「っ! あんた!?」
「……ほう?」
化け物は少し驚いて悼矢に向き直る。
「力の差が歴然だと分かっていても立ち上がるか……。人間にしておくのはもったいないくらいだ……」
「あんた、何考えてるのよっ! もうやめなさいっ! 人間が戦えるような相手じゃないのよ!」
リタが悲痛に叫ぶ。
だが――
「っるせええええええええええーっ!!」
悼矢がいきなり天に向かって大声で叫んだ。その声は空気を震わせてびりびりと窓を揺らす。この街全体に響き渡るんじゃないかと思うほどの大声だった。
突然のことにリタだけでなく禍魂まで呆気にとられていた。
「どいつもこいつも言いたいこと言いやがって……! 自分で自分の限界ラインを引くならいいさ! けどな! 勝手に俺の限界を決めてんじゃねぇ!」
「だが人間よ。おまえに何ができるというのだ。お前では俺に手傷を負わせることなど夢のまた夢。吼えたところでこの差は埋まりはしない」
「闘って勝てる相手じゃないことは俺も馬鹿じゃねぇ。理解してるぜ……! でもな、逃げられるわけねぇだろ! 必死に傷ついて戦ってるやつを放って逃げるなんて男ができるかよ!」
少女はハッと息を呑む。
いつの間にか眼が離せなくなっていた。偶然入った家で偶然出会った人物はとてつもなく真っ直ぐな男だった。
彼が持つその眼光は未知の化け物に見下ろされていてるにも関わらず衰えていない。
普通の人間ならなりふり構わず逃げ出してしまうほどの恐怖のはずだ。それをこの男は自らの意志で跳ね除けていた。
その意志の力を禍魂も気づき始めていた。
まじまじとこちらを睨んで見上げる人間の眼を見てしまう。
(なんなのだ、この男は……。圧倒的に不利な立場にあるというのに……!)
禍魂にとってこんな人間は初めてだった。どれだけ殴っても、どれだけ牙で引き千切ってもこの男は立ち上がってくる。そんな不気味な予感にまで囚われる。
(いや予感ではない……! この男は……!)
(私は思い違いをしていた……! 禍魂の言うとおり人間は儚く弱い。その肉体を壊すことは私たちにとっては容易かもしれない。でも、人間の心は……魂は……! 人間というのはこんなにも――
――こんなにも強い!)
ぐっと握った拳を胸にあてる。
力が沸く。何か言葉で表せないものが体の奥底から込み上げてくる。
(立たなくちゃ……! 立つのよ、私!)
少女は足を叱咤した。
見上げてくる眼光。
それから逃れるように禍魂はついに一歩退いてしまう。そして体が動いてから自分が後ろに下がったことに気づいた。
(怖れてる……!? 禍魂の俺が!? 人間ごときに!? 片手で握りつぶせるというのに!? こんなことがあってたまるか! あってなるものか!)
化け物が腕を振り上げた!
(潰してくれる!)
次の瞬間に待ちうけるのは確実な悼矢の死。
だが悼矢の表情は変わらない。
禍魂と悼矢の視線が真っ向からぶつかり合っていた。
(だめ……!)
殺されてしまう。自分の目の前で。禍魂を傷つける力もないくせに立ち向かった人間が。自分を守ろうとした人間が。
(嫌だ……! 力が欲しい……! 守りたい……! 彼を守りたい……! 殺されるなんてそんなこと……!)
「――させる……もんかぁああッ!」
刹那! 部屋の中に光が溢れた!
リタが畳を蹴って禍魂へと肉薄した。
「なっ!?」
背後からの迸るエネルギーに驚く禍魂。そしてそのエネルギーの塊がすぐそこまで迫っていた。
ドガアアアァァァァァン!
禍魂の視界が地震でも起こったかのように激しく揺れた。
禍魂の大きな体が吹っ飛び、畳を引き剥がし壁を突き破って隣の部屋へと吹っ飛んでいく!
禍魂の巨体は隣の部屋の押入れに背中を打ち付けてやっと止まった。
遅れて畳が細切れになったものが中空をふわふわとただよって床に落ちる。
辺りをもうもうと土煙が覆っていた。
禍魂は一体、何が起こったか理解できなかった。どうやら自分は殴られたらしいということだけが頬の痛みからやっと理解できた。
リタは拳を振るったままの格好で立っていた。その拳からはしゅ~~っと白い煙が立ち昇っている。
リタも自分が何をしたか理解できていなかった。なぜこれほどの力が出せたのか。何かに突き動かされるように気づけば禍魂を殴り飛ばしていた。
そしてふとその光に気づく。
「この光は……?」
発光しているのはリタの右肩であった。リタがドレスをめくると肩の部分に奇怪な紋章が刻まれていた。発光しているのはその紋章だった。
(私の紋章が……反応している? まさか……!)
リタは驚いた表情のまま悼矢に視線をやった。
化け物は壁に埋まった体を起こしてチッと舌打ちした。
呆然と事の成り行きを見ている悼矢にちらりと化け物は視線をやった。
そんな注目を受けている悼矢はといえばその場で尻餅をついてぽかーんとしていた。
リタと禍魂が気がついたのは同時だった。
(この男……エーテル使い……!)
「あの男……エーテル使いか……!」
リタが禍魂に向き直り、悼矢の前へ立ち塞がる。
まるで主を守る騎士のように。
できると思った。今なら呼び出せるとリタは思った。こちらの世界に来てから一度も呼び出すことのできなかった彼女の武器。
右手のひらを天に掲げる。部屋の中を暴風が渦巻く。その強風にあおられ悼矢は両手で防いだ。
「なんだよ! 今度は何が起こってんだよ!」
そんな悼矢を無視してリタはその名を呼んだ。
「来なさい! アルデヴァイン!」
光が剣の型を作っていく。
でかい。
大剣の中でも相当大きな部類に入るだろう。リタの身長よりも長い上に、重量的にもリタの体重よりあるだろう。リタの細い腕で扱えるのか疑問に思えるほどド級の大剣。だがその大剣をリタは軽々と振り上げている。大剣の装飾など細部は光に包まれていて分からないが業物だというのは間違いない。いや業物なんてものではない。リタの大剣は輝きと共にそれだけの存在感を放っていた。
「ぐるるぅ……」
化け物は唸り声をあげて一歩さがる。一瞬で力関係はくつがえっていた。化け物も不利になったことを理解していた。
(こうなってしまっては仕方がない……!)
禍魂は窓を突き破って外へ飛び出す!
リタはキッと化け物を睨んで叫んだ。
「逃がすか! 一瞬で滅びなさいっ! アルデ・ブレイバアアァッ!」
リタが大剣を化け物に向かって振り下ろすと光と風の濁流が大剣から放たれて化け物を飲み込む。
キュゴォオォオォオオォオォンッ!
「るぐぉおうぁあああああっ!!」
その光は化け物を飲み込む。化け物だけでなくリタのすぐそばのベランダをも吹き飛ばしている。なんという破壊力。片桐家から光が一筋、空に向けて放射されていた。
悼矢は尻餅をついたままその光景に見惚れていた。
光り輝く大剣から光の波動を放ち、金色の髪を揺らす凛々しい少女の姿を見て、そんな異常な状況の中で悼矢は彼女を美しいと思ったのであった。
光がおさまるとリタが大剣を振り下ろしたままの格好で立っていた。その手の大剣が光の粒子に分解されていく。
「流石にエーテル化するまでにはいたらなかったわね……」
リタは手から消えていく大剣を見て呟いた。
「…………倒したのか?」
化け物の姿は空にない。
「逃げられたわ……。でも深手を負わしたから当分は出てこないはずよ」
悼矢はほっと胸を撫で下ろす。あんな化け物とはできれば二度と関わりを持ちたくないところだ。
リタはくるりと振り返って悼矢を見据えた。
「ところであんた……名前は?」
「俺は片桐悼矢。おまえはリタ……だったか?」
「ええ、そうよ。ふーん、トウヤ……ねぇ」
リタは悼矢を上から下まで観察する。まるで品定めをしているようだった。そんな視線で見られて少し悼矢の体が固くなる。
「私の紋章が反応したのは間違いないし……。うん、決めたわ」
何か納得したようにこくりと頷く。
リタは改めて悼矢に向き直り、コホンと咳払いをした。そしてとんでもないことを平然と言い放った。
「トウヤ。あんた、今日から私のご主人様だから」
数秒間の沈黙。
悼矢がかろうじて言えたのは、
「……………………は?」という疑問の言葉だけだった。