陽だまりの市場と、焼き立てのアップルパイ
昨夜の冷たい惨劇が嘘のように、宿場町は澄み渡る秋晴れの朝を迎えていた。
東の空から注ぐ黄金色の光が屋根の赤煉瓦を照らし、石畳の路地からは焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「……んむ……あつ……」
宿のロビーの大きなソファで、ルチアは蓮の大きな上着を頭からすっぽりと被り、毛布にくるまったまま小さく身悶えしていた。
昨夜、夜通し泣きじゃくったせいで、その瞳は少しだけ赤く腫れている。
「ほら、ルチア。いつまで丸くなってるんだよ。せっかく晴れたんだから出かけるぞ」
蓮が焼き立ての香草パンと温かいスープをトレーに乗せて運んでくると、ルチアは毛布から鼻だけをひょこっと覗かせた。
「……下僕。我は……我は昨夜の失態により、英雄としての尊厳を完全に失ったのだ。今日からはこの毛布の住人としてひっそり暮らす……」
「くだらないこと言ってないで食えよ。冷めるぞ」
「む……っ! この香ばしいバターの香りは……!」
毛布からガバッと飛び出したルチアは、恥ずかしそうに下唇を噛みながらも、差し出されたパンをがぶりと口に含んだ。
「う、美味い……。悔しいが……焼き立てのパンに罪はない……」
「ふふ、元気が出たみたいで良かったわ」
隣で優雅に紅茶を味わっていたシルフィが、柔らかく微笑みながらルチアの頭を撫でる。
「ルチア、昨日のことはもう誰も気にしていないわ。それよりも今日は、この街の大きな『朝市』が立つ日なのよ。せっかくだから、美味しいものをたくさん探しに行きましょう?」
「朝市……!? 珍しい食べ物や甘味が……山ほど売られているのか!?」
ルチアの血赤色の瞳が一瞬でキラキラと輝きを取り戻した。
賑やかな活気に包まれた中央広場は、色鮮やかな果物や野菜、焼き立てのお菓子を並べた屋台で埋め尽くされていた。
「見て蓮! あのリンゴ、拳より大きいわ! 精霊の森のリンゴよりみずみずしそうだわ!」
「下僕! あっちの屋台で肉を串に刺して焼いているぞ! 匂いだけで我の胃袋が咆哮を上げている!」
両手に果物とお肉の串焼きを抱えた少女ふたりが、まるで子供のように目を輝かせて市場を駆け回る。
「おいおい、はしゃぎすぎだって……! 俺の財布のライフはもうゼロに近いんだからな!」
蓮はふたりを追いかけながら、苦笑いを浮かべた。
昨夜までの重苦しい空気はすっかり消え去り、そこにはただの「食いしん坊な少女たち」と「苦労性の少年」の微笑ましい日常がある。
そんな中、香ばしい甘い香りに誘われて辿り着いたのは、古びた大きなオーブンを据えた小さな洋菓子屋の屋台だった。
「いらっしゃい! ちょうど焼けたところだよ、名物の『蜂蜜アップルパイ』さ!」
店主のおばあさんが差し出した焼き立てのパイは、サクサクの生地からとろりとしたシナモン風味のリンゴと黄金色の蜂蜜が溢れ出していた。
「「……ッ!!」」
シルフィとルチアの足がピタリと止まる。
「蓮……あれを買って頂戴。私、あれを食べないと次の街まで歩けないわ」
「我もだ……! あのパイの香りは、我が魂を直接揺さぶっている……!」
「お前らなぁ……」
蓮は降参するように溜め息をつき、ポケットからコインを取り出した。
「おばちゃん、アップルパイ三つくれ」
「はいよ! 仲良し三人組だねぇ、サービスで焼きたての一番大きいのをあげるよ!」
ベンチに並んで座り、熱々のパイを一口頬張る。
サクッ、という心地よい音と共に、甘酸っぱいリンゴの風味と芳醇な蜂蜜の味わいが口いっぱいに広がる。
「~~~~~っ!! 美味しい!!」
シルフィが幸せそうに耳をパタパタと揺らし、ルチアもまた口元を蜂蜜だらけにしながら「美味い……! 美味すぎる……!」と目を丸くしていた。
「ふぅ……甘いものは心を豊かにするわねぇ。ねえ、ルチア」
「なんだ、シルフィ」
シルフィは自分のパイを小さくちぎり、ルチアのお皿へとそっと乗せた。
「昨日はごめんね。私がもっと早く指輪の呪いに気づいていれば、あなたに怖い思いをさせずに済んだのに」
ルチアは驚いたように目を見開き、それから照れくさそうに顔を背けた。
「……バカを言え。悪いのは我の心の隙に入り込んだあの不吉な指輪だ。……それに、貴様らの『温かい魔法』と下僕の鬱陶しい抱擁のおかげで、我は救われたのだからな」
「鬱陶しいは余計だろ」
蓮が笑いながら突っ込むと、ルチアはフッと口元を緩め、小さな声で呟いた。
「……ありがとう、ふたりとも」
その呟きは、秋の心地よい風に乗って、温かく市場の喧騒へ溶けていった。
昼下がり、お腹も心も満たされた三人は、再び荷馬車に乗り込んで街道へと足を踏み出していた。
御者台で手綱を握る蓮の隣で、シルフィは膝の上にルチアの頭を乗せ、スヤスヤと眠る彼女の髪を優しく撫でている。
「……すっかり打ち解けたな、ルチアも」
「ええ。あの子、ずっと寂しかったのよ。でももう大丈夫。私たちが、あの子の新しい『居場所』になるんだから」
シルフィは遠い空を見上げながら、どこか愛おしそうに呟いた。
「人間の生きる時間は一瞬で、傷つくことも多いけれど……こうして誰かと寄り添って食べるアップルパイの味は、何百年経ってもきっと忘れないわ」
「そうだな。……よし、次の街に着いたら、もっと美味い料理を探すぞ」
「ふふ、約束よ、蓮」
ガタゴトと音を立てて、小さな荷馬車が秋の陽射しの中を進んでいく。
世界を脅かす12の秘宝を巡る旅。
けれど彼らの歩む道には、これからもたくさんの「美味しいもの」と、ささやかで掛け替えのない「日常」が満ちていくのだった。




