小さな街のシチューと、ほどけない指輪
川を越えて街道を半日ほど進むと、なだらかな丘の麓に赤煉瓦の屋根が連なる小さな宿場町が見えてきた。
日暮れ時の街には、あちこちのエントツから細い煙が立ち上り、どこかの家庭で炒められたニンニクと香草の香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
「ふぁぁ……ついた……。や、やっと足が地面に着くのね……」
馬車が宿の広場に停まるやいなや、シルフィは崩れ落ちるように御者台から飛び降り、草の上に大の字になった。
「大げさだな、シルフィ。今日は昨日より全然揺れなかったろ」
蓮が笑いながら馬をつなぎ、荷台から木箱を降ろす。
「無礼者め、下僕。長寿のエルフにとって、ガタガタ揺れる木箱の中で過ごす数時間は苦痛以外の何物でもないのだぞ。ほら、我の肩も揉むが良い」
ルチアが偉そうに腕を組みながら、自らも足をもつれさせて馬車から降りてきた。口元には、移動中にこっそり食べたと思われる干し肉の油がしっかりと残っている。
「自分で歩いたわけでもないのに肩が凝るわけないだろ。……ほら、約束のシチュー、作るから手伝え」
「「えっ」」
二人の声が重なった。
「手伝うって……蓮、私は旅の疲れで指一本動かないのだけれど」
「我は暗殺の訓練しか受けておらん。野菜を刻めばみじん切りではなく粉砕になるぞ」
「威張るな。シルフィは薪を割る。ルチアはジャガイモの皮をむく。やらない奴にはシチューはおあずけだ」
蓮の容赦ない宣告に、ふたりは「うぅ……鬼……」「情け容赦のない下僕め……」と愚痴をこぼしながらも、渋々エプロン代わりに手ぬぐいを腰に巻き始めた。
小さな貸し竈を借り、火を焚く。
シルフィが「薪を割るなんて物理的な労働、私の優雅な美意識が……」と呟きながら、指先で小さな風の刃を飛ばして薪を綺麗に二つ割りにする。
「魔法で横着するなよ……。まあ、助かるけど」
ルチアはルチアで、短剣を器用に使ってジャガイモの皮をむいていく。最初こそ力を入れすぎてジャガイモを半分の大きさにしてしまっていたが、集中すると驚くほどの精度で薄く皮を削ぎ落とし始めた。
「……ふん。我が手にかかれば、ジャガイモの皮むきなど造作もない」
「すごいじゃない、ルチア。暗殺者の精密動作って、お料理にぴったりね」
「貴様、褒めているのかけなしているのかどっちだ!?」
芽を綺麗に取り除いたジャガイモ、甘みの詰まった大きなタマネギ、そして昨日川の近くで摘んだ新鮮な野草。蓮が大鍋で肉を炒め、野菜を加え、じっくりと煮込んでいく。
やがて、ぐつぐつと白い湯気が上がり、クリーミーで濃厚なシチューの香りが小さな中庭いっぱいに広がり始めた。
「ん……いい匂い……。蓮、もう食べていいかしら?」
シルフィがスプーンを手に、物欲しそうに鍋を覗き込む。
「まだだ。仕上げの香草を入れて、あと三分」
「三分……エルフの人生における三分なんて、一瞬のはずなのに……どうしてこんなに長く感じるのかしら……」
「我の腹の虫も、限界を迎えておる……」
三分後。
お椀に注がれた熱々のシチューを、三人は並んで丸太に腰掛けながら一口口に含んだ。
「~っ!!」
シルフィの耳がピンと跳ね上がる。
「美味しい……! お肉が口の中で解けて、お野菜の甘みがすごいわ……!」
「……美味い。なんだこれは……。組織で食わされていたスープは、ただの温かい泥水だったのではないかと思えるほどだ……っ」
ルチアはハフハフと熱が言いながら、頬を桃色に染めて勢いよくスプーンを動かした。
「慌てて食うなよ、火傷するぞ」
蓮は自分のお椀を手に取り、ふーふーと息を吹きかけながら笑った。
ただのシチューだ。特別な魔法も、高級な食材も使っていない。
けれど、一日の旅を終え、自分たちの手で準備し、誰かと並んで食べる温かい料理は、どんな贅沢な御馳走よりも胸をじんと温かくしてくれた。
「ねえ、蓮」
シルフィがシチューの湯気の向こうから、そっと蓮を見つめた。
「ん? なんだ?」
「……こういう時間をね、昔の私は『無駄な時間』だと思っていたの。ご飯を食べて、他愛もない話をして、一日が終わっていく……。何百年も生きていると、そういう日々の繰り返しが、ただ通り過ぎていく風のように感じられて」
シルフィはスプーンを止め、自分の小さな手を見つめた。
「でも……あなたたちと一緒に食べるシチューは、とても美味しいわ。時間が通り過ぎていくのが、少しだけ勿体なく思えるくらいに」
蓮は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「……まあ、美味しいなら作った甲斐があったよ」
「ふん! 我の剥いたジャガイモの火通りが完璧だったからに決まっているだろう!」
ルチアがドヤ顔で胸を張る。
「はいはい、ルチアのおかげでもあるよ。……ほら、おかわりあるぞ」
「貰う!!」
静かで、温かな夜。
星空の下、小さな薪の炎が三人の顔を柔らかく照らしていた。
夜が深まり、街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
ルチアが満腹になってシチューの鍋の横で丸くなり、すやすやと寝息を立て始めた頃。
宿の裏手、静まり返った骨董品売り場の一角で、細い指輪が不気味に赤く明滅していた。
それは、展示された古びたジュエリーボックスの中に転がっていた、黒ずんだ銀の指輪――12の神造遺物のひとつ、『因果の縛環』。
店主も気づかないうちに、その指輪から伸びた目に見えない魔力の糸が、静かに、確実に、宿で眠るルチアの足元へと忍び寄っていた。
「……ん……」
眠っているルチアの胸元で、壊れたハサミの小さな破片が、警告するように微かに震えた。
静かな街に、新たな波乱の予感が、ひっそりと忍び寄っていた。
けれど、今はまだ。
鍋に残ったシチューの温もりと、三人の穏やかな寝息が、秋の夜気の中に優しく溶けていた。




