湯煙の隠れ里と、真夜中の卓球
港町カイロスをあとにした荷馬車は、南の潮風から離れ、紅葉で赤や黄色に染まる深い山々へと足を踏み入れていた。
九死に一生を得るような死闘を乗り越えてきた三人だったが、山道を登るにつれて車内に漂うのは重苦しい空気……ではなく、どこまでも呑気でくだらない会話だった。
「――ねえ蓮、そろそろ教えてちょうだい。今日の目的地には、本当に『体を溶かすほど温かい奇跡の泉』があるの?」
馬車の小窓から身を乗り出し、シルフィが金色の髪をなびかせながら目を輝かせる。
「体を溶かすなって物騒な言い方すんなよ。ただの『温泉』だよ。山奥にある隠れ里の湯治場だ」
「温泉……! 我も聞いたことがあるぞ! 入るだけで傷が癒え、肌がすべすべになり、なぜかお腹が空くという伝説の霊薬の湯だな!?」
「お腹が空くのはお前が年中空かせてるからだろ」
手綱を引く蓮が呆れ顔で突っ込むと、ルチアは「無礼者! 我は旅の疲労を癒やす準備をしているのだ!」とふんぞり返った。
やがて、モクモクと立ち上る白い湯煙と、ほのかに漂う硫黄の匂いが山あいに見えてきた。
木造の古風な宿が立ち並ぶ温泉街――湯の里『湯の華』。
「はぁぁぁ……あったかいわぁ……」
その日の夕方。女性用のアザラシのように湯船に浮かんでいたのは、シルフィだった。
長寿のエルフといえど、温かい湯の魅力には抗えない。濡れた金髪を頭の上で小さくお団子に結び、ふにゃりと頬を緩ませている。
「シルフィ、のぼせるぞ。ほら、冷たい果実水持ってきてやったから飲めよ」
「……ん、ありがとう蓮。あなたって本当に気の利く下僕ね……」
「誰が下僕だ。脱衣所の棚に置いておくからな」
男湯と女湯を隔てる高い竹垣越しに、蓮の声が響く。
「おい下僕! 我の分はどうした! 我にもその冷たい果実水を入れよ!」
となりの湯船で、頭に手ぬぐいを乗せたルチアがバシャバシャと湯を跳ねさせながら叫ぶ。
「ルチア、湯船で暴れないの。……それにしても、蓮。たまにはこういう『戦わない旅』も悪くないわね」
シルフィが湯をすくい、ぼんやりと天井の木目を眺めながら呟く。
「そうだな。毎度毎度、死闘の連続じゃ身が持たないからな」
「ふふ、人間は本当に疲れやすくて儚いわね。……でも、だからこそこういう温もりを大切にできるのかもしのかもしれないわ」
竹垣の向こうで、蓮がふっと優しく笑う気配がした。
湯上がりの夜。
浴衣姿に着替えた三人は、宿の広い大広間に集まっていた。
畳の上に置かれていたのは、一台の大きな緑色の木製ラケットと、小さな白い球。
地球の「卓球」に非常によく似た、この地方の伝統的な娯楽ゲームだった。
「ふん……球を小さなラケットで打ち返すだけの戯れか。暗殺術を極めた我が手に乗れば、一瞬で終わるぞ」
不敵に笑うルチアが、カチンと球を床に突く。
「甘いわよルチア。私はこう見えて風の精霊術士。空気の抵抗も流体もすべて計算……ううん、感覚で把握できるのよ?」
「いいから二人とも、魔術も殺気も禁止だぞ。ただの遊びなんだからな」
蓮が審判席(という名の座布団)に腰掛け、掛け声をかける。
「じゃあ、シルフィのサーブから! スタート!」
コンッ――――。
シルフィが放ったサーブは、見事な放物線を描いてネットを超えた。
「ハッ! ぬるい!!」
ルチアが身を躍らせ、素早い踏み込みから強烈なスマッシュを叩き込む!
ドカァンッ!!
「キャッ!?」
球はピンポン玉とは思えない速度でシルフィの脇を抜け、後ろの掛け軸を揺らした。
「よし! 我の勝利だ!」
「ちょっとルチア! 今のは腕の振りに暗殺の術理が混ざっていたわ! ズルよ!」
「言いがかりだ! 我はただ全力で腕を振っただけだ!」
「よーし、見ていなさい……! 私の『感覚派サーブ』を受けてみなさい!」
「やってみろ、ポンコツエルフ!」
最初は「ただの遊び」だったはずの卓球が、次第に熱を帯びていく。
魔術禁止と言われつつも、無意識に風の旋風で球の軌道を曲げようとするシルフィと、持ち前の動体視力と体幹で強引に打ち返すルチア。
「あーっ! また曲がった! シルフィ、貴様風を使ったな!?」
「使ってないわよ! これが『回転』というものよ!」
「嘘をつけ! 球が途中で『へ』の字に曲がる回転などあるか!!」
「二人とも落ち着けって! 畳が擦り切れるだろ!!」
仲裁に入った蓮も巻き込まれ、三人で畳の上を転がり回りながら爆笑する。
かつて世界を脅かす秘宝を巡り、命を奪い合おうとしていた元刺客と、一人静かに森で時を過ごしていたエルフ。
そんな二人が、いまや風呂上がりの浴衣姿で、小さな球ひとつを追いかけて子供のようにムキになっている。
「あはははっ! もうダメ、お腹が痛いわ……!」
シルフィが畳にひっくり返り、お腹を抱えて笑う。
「くっ……笑うなエルフ! 次こそは我が勝つ!」
ルチアも頬を真っ赤にしながら、負けじとラケットを握り直した。
蓮は二人の笑い顔を見つめながら、そっと胸のポケットに触れた。
『神の単眼鏡』は今夜、静かに眠っている。敵の気配も、不吉な魔力の歪みもない。
ただ、温泉の温かな湯気と、夜風が運ぶ木の匂い、そして仲間たちの楽しそうな笑い声だけが大広間に満ちていた。
「……さあ、次は俺が相手になってやるよ。覚悟しろよ、二人とも!」
「「望むところよ(だ)!!」」
夜深くまで続いた小さな勝負。
傷を癒やし、絆を深めるための特別な夜は、温かな湯煙と共に静かに更けていくのだった。




